3月25日(水)

20411

 昨日の小林道夫先生のお話の中で「インヴェンション(インヴェンツィオと発音なさっていたかも)の第2番はどうしても馴染めなかった」。また、タイトルは言わずにシンフォニアの第9番ヘ短調冒頭部分をお弾きになって「これも未だに全然覚えられない」と仰っていた。
 非常に論理的な先生のお話の中で、唯一感覚的なお話だった。感覚的な話がダメなわけはない。それこそ下手な理論よりも優れた感覚のほうが勝るのが芸術の世界だからだ。受講生の間からは同意するような笑いが漏れたのだが、インヴェンション/シンフォニア分析をする作曲家の立場から見ると、2声と3声の最も重要な曲である。その点について触れないと偉大な先生の言葉が、この2曲を「ないがしろにしてもよい」という免罪符になってしまうのではないかと少々心配になった。二声の2番は15曲中もっとも厳格なカノンであって、旋律を色分けすると視覚的にもハッとするような美しい絵柄が浮き上がる。三声の9番は調性が確定したところですぐに転調がはじまるという、トリスタン和音の逆の意味における限界点を示している曲で、1音でもミスタッチすると論理的に成り立たなくなる可能性のある曲である。

 毎晩、不定期便で20世紀中葉の前衛音楽を紹介しているけれども、理解を求めているわけではない。前衛音楽を、あるいはその歴史を知らずに「解らない」というのは食べたことのない食べ物の好き嫌いを語るようなもので、まるで説得力がない。しかし、ある程度知識がないと、茫洋とした昔の前衛音楽の海を泳ぐことは困難だろう。その手助けとして、非常に高い能力をもつ作曲家たち、つまり、高いソルフェージュ能力を持つ、加えて、古典的な音楽を理解する力も高い(指揮者としても世界一流であったりする)、楽器の演奏能力も一流であったり、音楽以外の分野においても世界の一流であったりする作曲家の作品を紹介している。つまり、単にデタラメを書くとは思えない人たちである。だからデタラメではないと言っているのではない。偶然性を取り入れた音楽はデタラメを理論化しただけのものと言えるかも知れない。だが、それをデタラメであると論破することは非常に難しい。まずは、知ることから始まる。
 いつも言うように、私自身は“自己の発見(自分自身を見いだす)”の産物として、現在以後の全ての人々を虜(とりこ)にするような音楽を生み出すことが唯一の目標だ。