2月20日(金)

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 午前中に音楽評論家の国土潤一氏から電話。FM番組で解説をしている時はちょっと緊張感のある声だけれど、リラックスしている時の声はすごくいい声だ。いい声は神さまからの贈り物。さすがオペラ歌手出身。カッコいいなあ。で、内容はコンサート出演への打診。近況も訊かれたので「もうヨボヨボで死にそうだ」と答えた。
 今週は調子が悪かったので、数学は大の苦手なのに、調子が悪い時くらいしかやる気にならないのでルベーグ積分を勉強した。なぜルベーグ積分なのかと言うと、リーマン積分にあっという間に行き詰まったから。ルベーグ積分もさっぱり解らなからなかったけれど、なんだかとても楽しかった。数学と音楽は親和性が高い。それは、たとえば地理が作曲に少しも応用できないことを考えれば分かるだろう。
 今週はサウンドスケープに関する大著も読んだ。「世界の調律」(R.マリー・シェーファー/平凡社)。「誰がヴァイオリンを殺したか」を読んだ時と同じような感慨を持った。
 たとえばハイファイとはS/N比が高い状態を指す。つまりシグナルとノイズの比率である。クルマの中で音楽を聴く時、音量を上げれば相対的にノイズは聴こえにくくなりハイファイ度が増すわけだが、大音量は果たしてハイファイだろうか。若い頃には高級オーディオという世界が普通にあった。スピーカー1本100万円超の世界である。秋葉原の地下にある特別な試聴室でカール・ベームの振るモーツァルトのジュピターを聴いた時、ヴァイオリンの弓がダウンボウの時に松脂をはじき飛ばす音が聴こえたような気がした。学生オケでチェロを弾く時にいつも聴いていた音だ。クルマの中での大音量のジュピターではおそらく聴こえない音だろう。
 サウンドスケープ的には、田舎はハイファイである。虫の羽音まで聴こえる。都会のローファイなサウンド・スケープでは、音は過密で識別できない音が多くなる。音楽をサウンドスケープとして捉えると、ヴォーン=ウィリアムズは超ハイファイだ。ショパンドビュッシーピアノ曲もハイファイ。バッハもモーツァルトもハイファイ。現代音楽の作曲家にはローファイな人が多い。武満徹は現代音楽の中ではハイファイ。ハイファイだから好きということはないけれど、ローファイは確実に嫌いだ。ローファイな曲を書く人はdB(デシベル)聴力ではなく、心の耳の聴力が悪いのだと思う。
 サウンドスケープを学ぶ第一歩は「イヤー・クリーニング(耳掃除)」。これは静寂を知ることだ。音楽を演奏するということは、この世で最も美しいサウンドスケープである「静寂」を無礼にも破ることだ。だから、音楽はなるべく静寂と同じくらい美しくなければならない。理想は大音量でも静寂のようだということ。
 日曜日にカミさんと買い物に出た時、ちょうど銀行の前の音楽時計が時を告げた。しかし、それは大音量の電子音。本物の金属が打ち震える鐘の音が聴きたいと思った。それなら100年以上だってもつだろうに、この2階建てくらいの高さのある高価な電子おもちゃ(それもサウンドデザイナーから見たら、相当レベルが低い)はその何分の1以下の寿命しかないだろう。電子おもちゃの音で育った子どもたちが次代のサウンドスケープを担うのかと思うと気が重い。