5月30日(日)

65741

 当たり前のことだが、ネットのニュースページにヘッドラインが並んでいる。しかし「社民党、連立政権離脱を決定」と「日本ケンタッキー 激辛チキン発売へ」が同列に報じられているのを見ると、学校給食のチグハグな組み合わせメニューを思い出してしまう。
 こういう現場を目にしながら育った子ども、あるいは若者は、この状態を当たり前を感じるようになってしまうことだろう。
 音楽でも同じことが起こっている。ひとつの例として、機能和声学上の意味における “不協和音” の解決を正しく行なっているメソードはそれほど多くない。20世紀中葉になってから登場する前衛的な作品でさえ、すぐれた作曲家なら見事に不正な解決を避けているのに(機能和声学的な解決を必要とするシーンを巧妙かつ見事に回避しているとも言える)、単純なピアノ入門メソードがボロボロと間違えていたりして困ったことになっている。
 「現代では、そんなことは気にしなくてよいのだ」というのなら、そのようなメソードで、非常に厳格な和声センスで佐曲しているベートーヴェンショパンが理解出来るようになるのかという問いに答えて欲しくなる。
 食材の組み合わせも、和声の組み合わせも積み重ねられた伝統の上にのみ “正解” があると考えてよいだろう。時代によって姿形が変わっても、食事も音楽も本質は変わらない。つまり、変わる要素と普遍の要素があるということだ。メソードは、まず、その普遍の要素を伝え、それから時代性を通して歴史を教えなければならない。だから、メソードは時代に応じて更新されつづけなければならないが、優れたメソードはどの時代でも通用する。
 ウラノメトリア3αの序文にもほのめかす程度に書いたが、「子どもの興味を惹く」ことを目標に書かれたメソードが時代を乗り越えられるとは思えない。そのメソードによって子どもたちが古典に目を開くようであれば、それこそ本物である。
 バッハは古くて聴けないだろうか? ベートーヴェンよりショパンのほうが新しいから良いと言えるだろうか? 古いという言葉をマイナスイメージで使う人は、作曲されたばかりの最先端の現代音楽だけを聴き、それでレッスンしているのだろうか? 
 まず私たちは、過去の優れた音楽家たちが、その生涯において何に気づいたのかを楽譜から読み取らなければならない。すると、彼らには共通するセンス(それが和声学や対位法、楽式論などを生み出した)を持っていることに思い当たることだろう。私たちが音楽理論を学ぶのは、理論を知るためではなく、それらのセンスを獲得することによって過去の理論に次の1ページを加えるためにほかならない。
 
 話題は変わるが、今日は朝から母の携帯電話を解約したり、デパートの “友の会” からの退会手続きを行なったり、香典返しの追加注文に行ったりという忙しい一日を過ごした。種々の詐欺事案などが発生しているからだろうが、いちいち戸籍の除籍情報(コピー不可だったりする)や死亡診断書の写し、申請する代理人の証明などが必要で、書類を調達することも煩雑ではあった。あとはクレジットカードの解約を残すのみとなった。本人ならば電話一本で手続きが終わるのだが、故人となるとそうはいかないらしい(今日説明を聞いたところによると)。
 今日は休日でもできる手続きをまとめて行なったが、平日にしかできないという手続きも多く、私のような自由業でない人がどれだけ苦労するかが偲ばれる。特に金融機関は手続きが厳密で、親を亡くしたときに兄弟姉妹が多い人などは大変なことだろう(相続者全員の印鑑証明と、連名の申請書に全員の実印が必要)。専業主婦だった母の、残高わずか905円の通帳を解約するのにかかった手間は間違いなく残高以上の労力と経費がかかったはずだ(もう少し高額の通帳もあったけれど)。