8月13日(金)Pluto

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 先週のレッスンで「面倒くさそう」と言っていたおチビがベートーヴェンの49-2を弾きこなしてきた。本物の偉大さは面倒くささなどということは些末な問題に過ぎない。
 誰かに自分の曲を弾いて欲しければ本物を書くしかないということだ。

 昨夜読み始めた「Pluto」読了。
 作者の浦沢直樹山下達郎も、そして他ならぬ私も「アトムの子」であることを再確認させられるようなマンガだった。
 「20世紀少年」と「モンスター」の世界観で手塚治虫の「地上最大のロボット」をリメイクした作品。20世紀少年を理解するには(ストーリーを、ではなく)大阪万博を実際に体験していなければならない。大阪万博には行っていなくともよい。その時代の空気を呼吸しているだけで充分だ。しかし、その時代に生きていても、その空気を呼吸できなければ駄目かも知れない。大阪万博は当時の人々の未来観を具現化したものだった。
 万博のためにカールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)だって来日したのだ。彼の電子音楽のために考案されたグラフのような楽譜が中学の音楽の教科書に載っていた。それも時代の空気が為せる業だろう。
「調性から無調へ」が合い言葉になるような時代だった。
 当時、未来は科学の手に委ねられていた。想像上の未来の科学は万能で、人類に怖いものなどなかった。21世紀の都市は金属とガラスだけでできていると思い込まされるような時代だった。人を幸せにするものばかりが作られていたのではない。核兵器の開発競争も激しかった。大型のメガトンサイズの戦略核兵器は「実は使い道がない」ということに気づいた米ソが小型の戦術核兵器にシフトしたのもこの頃だったような気がする。それは「中性子爆弾」などと呼ばれたりした。
 Plutoには「反陽子爆弾」が登場する。地球を破壊する力を持つ兵器だ。同じく反陽子爆弾が登場するのが手塚治虫のW3(ワンダースリー)。そういえばコミック版とアニメ版はラストがまるで異なる。当時、原作に比べてアニメ版はどれも子どもっぽかった。
 Plutoを読んで「アトム今昔物語」を思い出した。これはアトム外伝のような作品で、昆虫型宇宙人のスカラとアトムが過去にタイムスリップして、エネルギー切れでメコン川(だったか?)に沈んで(記憶が怪しくなってきた)、そのまま現代(当時の現代)に戻ってくる話。ところがアトムが2台存在することになるというタイムパラドックスが生じ・・・・・。というような話だった、と思う。キリギリスそっくりなスカラが草むらに入って行って、そこで虫たちに紛れて暮らしていくというラストシーンが強烈な余韻となって心に残った。
 Plutoを読むまで、私は自分を「サンダーバードの子」だと思っていたのかも知れない。録音・録画のすべがなかった少年時代、サンダーバードの音楽を保存する方法は覚えることと楽譜に書く事だけだった。小学生の時には楽譜を書く力がなかったので、中学・高校時代に記憶を頼りにいくつかの曲を楽譜にした。しかし、アトムのほうが影響が大きかったのではないか(音楽的には全く影響を受けていないと思う)。
 なんだか書いていることに脈絡がなくなってきたので、もう寝る。