9月10日(土)

195272

 昨日書いたとおり、ウラノメトリアが停滞している。ウラノメトリアの停滞は私そのものの停滞だ。
 この数カ月に書いた曲を改めて見なおした。その多くがウラノメトリア2β改訂版に加えるために書いたものだが、どれも何かが足りない。いつも書いているように「思いついたから書いた曲」とか「ちょっといい曲」などは誰かの時間を奪うだけで何の役にも立たない。
 「オリジナル(源流)であること」「ユニーク(他に似ているものがなく独立している)であること」「音楽美に彩られていること」「他の作品との間に一貫性があること」「少なくとも、昨日よりも一歩踏み出していること」の5点のうち3つ以上、できれば5つ全部が実現されていることが望ましい。
 「オリジナルであること」と「ユニークであること」は同じように思えるかもしれないが、異なる概念。たとえば、プーランクが「モーツァルト風に」という曲を書いたとしよう。モーツァルトを借りるという点で、これはオリジナルではない。しかし、プーランクのことだから彼の個性が存分に発揮されて、誰が聴いてもプーランクが書いたと気づくに違いない。これがユニーク。
 「音楽美に彩られていること」というのは音楽として魅力的であるということ。楽譜をほしいと思う(弾きたい、聴きたい)動機に「オリジナルである」「ユニークである」「他の作品との間に一貫性がある」「一歩踏み出している」の4点は弱い。「わ、素敵な曲!」これがが圧倒的に強いはずだ。
 しかし、長く愛されるためには、残りの4つの理由が必要だ。
 
 つらつらと他人のブログを読んでいたら、社会学者の上野千鶴子さんと辻井喬さんの対談を引用しているものがあった。孫引きする。辻井喬上野千鶴子の対談「ポスト消費社会のゆくえ」(文春新書)より。

*****
上野千鶴子  ピエール・ブルデューの『ディスタンクシオン−社会的判断力批判』(藤原書店・1990年)はお読みになりましたか? 彼はそのなかで、「前衛芸術はどのような人によって選好されるか」という問いを立てています。前衛芸術は評価の定まらないものです。評価が定まったものではなくて、定まらないものに対して価値を見出すのは成り上がりの新興ブルジョワジーであると、明確に書いています。それはなぜかというと、「前衛芸術とは旧ブルジョワジーに対する自己差別化の記号だからだ」と。
*****

 こういう考え方もあるのか、と思った。「前衛芸術は評価の定まらないものです」とあるが、それは社会的な共通の了解のことだろう。芸術家ならば、それぞれ個々の中で評価は確定する。ピカソ岡本太郎ジョン・ケージだったら、彼らの中で評価が定まらない状態などありえないことだろう。
 しかし、ピエール・ブルデューの言っていることのほうが社会的には通用するに違いない。
 ここから導きだされることは、芸術家やクリエイター自身は鑑賞者ではないとみなされているということだろう。彼らは「前衛芸術だから」という大まかな理由、あるいは「くくり」では、それを好まない。良い作品だと思ものに価値を見出す。

 閑話休題
 レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」(直訳すると「たんぽぽのワイン」)がブラッドベリ自身のプロデュースによって映画化されるらしい。ブラッドベリは91歳で、いまだ現役。
 たんぽぽのお酒の主人公は少年時代のブラッドベリ自身。半自伝的で不思議な魅力に満ちた作品だ。
 トリュフォーが監督した「華氏451度」もディズニープロ(たぶん)による「何かが道をやってくる」も面白かった。ロック・ハドソンが主役を演じたTVドラマ版の「火星年代記」は、チープでちょっとダメだったが、ブラッドベリファンなら楽しめたことだろう。
 ブラッドベリは、ジョン・ヒューストンが監督したメルヴィルの「白鯨」で脚本を担当している。あれは名画だった。小説も面白かった。モビー・ディックの描写は鳥肌が立つほど凄かった。「巨大な魚は、その三日月状の尾びれをぐぐっと細かく動かしながら・・・」で始まるピーター・ベンチリーの「ジョーズ」の書き出しくらい凄かった。
 ウラノメトリアも「凄く」なければ。


>海外でも人気の日本の新幹線

 新幹線の速さは海外でも人気があるらしく、数多くの動画サイトが見つかる。むしろ日本人のサイトよりも新幹線の速さが強調されていて面白い。
 下の動画にはリニア新幹線の試験車両も登場する。ここに出てくる様々な新幹線車両を見ると、リニア新幹線に莫大なコストをかける必要があるのかどうか疑わしくなってくる。遠い未来の技術は、実現する頃にはレトロになっていたり、過剰な性能であったりするものだ。その例がコンコルドであり、高速増殖炉ではないだろうか。
 動画は2分15秒。

Crazy Fast and Safe Japanese Shinkansen train