10月15日(水)

5173

 朝から気持ちよく晴れている。
 頭の渦状銀河状態、いわゆる“ウニ”状態から脱しつつあることを感じる。朝から思考がクリア。間もなく90歳を迎える父から、山上憶良(やまのうえの・おくら)平田篤胤(ひらた・あつたね)、土井晩翠(どい・ばんすい)、若山牧水(わかやま・ぼくすい)、長谷川かな女について調べたいことがあるという依頼。まだまだ文章を書いてどこかに発表しているらしい。午後に図書館に同行する約束をして午前のレッスンが始まる。
 今朝は高綱先生。高綱先生といえば、先日の発表会での日記は実に言葉足らずで、誰が読んでも酷い演奏だったようにしか思えない内容だった。これはお詫びしなければならない。高綱門下以外の生徒さんたちが楽譜の記譜順に鍵盤を「もぐらたたき」のように叩いて行く様を見てぶっ飛んでしまったことと、それとは全く別の次元で高綱先生のお弟子さんたちについて書いたことがごっちゃになっていた。高綱組は音楽的クオリアにおいて他を圧倒していた。その点において彼女の能力に疑問はない。ただ、とても高い視点から見て、彼らが「2年生」の演奏をしてしまったことが私の配慮の足りなさだったということが気になってならなかったということだ。人間としては小学校2年生の子どもには小学校2年生として接するべきだが、こと音楽表現では容赦してはならない。というわけで、今日も高綱先生にお詫びするどころか「音楽的には子ども扱いしてはいけません」などと偉そうなことを言ってしまった。まるで千秋と“のだめ”のようだ。
 レッスンではツェルニー30番を3曲残すのみ。次回からル・クーペの「ツェルニー40番への準備練習」に入る。いつも書いているようにツェルニー30番の「レッスンを受ける」ことと「レッスンすること」は大きく異なる。ツェルニーは練習すれば弾けるようになるのではなく、打鍵、奏法、テクニック、時代様式に基づく表現の理解が重要で、それらは楽式論的な知識や解釈に優先する。さらに、何より、ツェルニーなどのテクニカルエチュードのポイントは、生徒が「弾きたくて弾きたくてウズウズする」ような音楽理解を与えられるかどうかである。義務で弾いても決してよい演奏にはならないことは断言できる。作曲工房でツェルニーを合格したピアノ指導者の例奏は、大人・子どもを問わず門下の誰をも虜にすることだろう。バイエルやツェルニーを「つまらない」と感じながらレッスンをしたり受けたりしている人たちに、そのクオリアを伝える術(すべ)を探らなければならない。