10月14日(火)

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 午前はSさんのレッスン。この人の勤勉さには頭が下がる。光るような才能を感じるというようなことはないものの、才能云々よりも志の典型例かも知れない。「量は質に転化する」は、実際にあり得ることだろう。レッスンを重ねるごとに少しずつでも向上していることを感じる。逆の例、つまり才能を感じるのに伸びない人はザラにいる。
 昼過ぎに、母親を乗せて近所の大型スーパーへ。
 日記には書かなかったが、土日にかけてC1のほうを調律した。忙しい時ほど何かやりたくなるものだ。平均律の割り付けがうまくいったので気持ちが良かったが、音を止めきれなかったので午後に修正。
 その合間に、昨日、消化しきれなった情報をまとめる。簡単に書くと、結論は現代日本の最大の問題点は「教育」であるということ。極論するならば、学校制度を全て廃止すると全体としての学力は下がるものの、それは天才の輩出につながり、それが日本の危機を救う一助になる可能性がさえあるのではないかということだ。もちろん「極論」。「人は一人ひとり“大きく”異なる」ということが共通認識となれば、教育は必ず変わる。小学校までは共通カリキュラムとし、以後は、個人個人の得意分野を伸ばすような選択的な学習でよいのではないか。国民として必須の共通能力は、通常の納税に必要な事務処理能力があるという程度でよいのではないか。オールマイティな人間を育てようとすること自体が歪みを生じさせるように思えてならない。読字障害だけを見ても、教科書による教育やペーパーテストでは能力を伸ばしたり測ったりすることは不可能であるように、集団に溶け込めない人にとっては学校そのものが教育機関とは思えないことだろう。
 放送大学は読字障害の人にとっては福音なのではないか。内容や講義がよく練られているということもあるのだろうが、私自身にとっても非常に分かりやすい。内容が高度であるだけに、それはある意味驚きだ。先日見せてもらったセンター模試の「現代文」の問題文は、少なからぬ読み手が誤解するような書き方だから問題文となるのだろう。ということは、現代文の勉強というのは悪文や“ダメ文筆家”が書いた文章を読み解くための反面教育ということか。高校生には、たとえどんなに高度な内容でも誰にでも正しく伝わる文章にこそ触れさせるべきだろう。
 音楽大学も惨憺たる状況だ。先日のピアノ発表会を引き合いに出すまでもなく“音楽”教育は存在しないと言えるだろう。クオリアを伝えないレッスンは全く意味がない。
 夜以降のレッスンも面白かったのだが、今日はここまで。