10月31日(金)

6770

 いきなり余計な話だが、6770kmはアマゾン川の最も長い源流から河口までの距離であったかも知れない。
 
 曲名の重要性に気づいて、ウラノメトリアの各曲のタイトルを考えていた数週間前、何冊(何十冊?)もの詩集、画集、言葉の本のページをめくった。初日のうちに曲名をつける作業は全くごまかしが効かないことが分かった。音楽と一緒で本気で取り組むしかない。実際、素晴らしい曲名をつけるにはプロの詩人になるくらいの覚悟が必要であることは間違いない。
 ドビュッシーもサティーも詩人だった。もし前奏曲集の各曲に番号だけが付されていたら魅力は減じたに違いない。「亜麻色の髪の乙女」「沈める寺」・・・、タイトルだけで一行の詩のようだ。「お前が欲しい」に至っては、もっとたくさんの言葉を綴ってもこれだけのイメージを表現できる気がしない。
 今日は横浜国大で留学生を相手に日本語の講座も持っている佐々木瑞枝教授の著書「日本語ってどんな言葉?」を読んだ。留学生がそれぞれの文化・言語的背景を背負って感じる日本語表現に対する疑問への新鮮な驚き集である。逆に日本人は日本語をどこまで知っているのだろうかと思ってしまったくらいだ。

「バスは1時間おきに来る」
「会議は1週間おきに開かれる」

前者は1時間に1本、バスが来るという意味であるのに対し、後者は隔週で会議が開かれたことを意味する。これを留学生に説明するにはどうするか。「一割五分」というように使われる「割」と「分」も二重の意味がある。「九割方できあがった」「九分どおり完成した」は同じ90パーセントを表しているが、一割五分の「分」は1パーセントを指す。
 あるいは街道や鉄道の「上り」「下り」が東京を起点としているのに「上井草」のほうが「下井草」よりも「下(しも)」にあるのはなぜか?(答えは、京都が都であった頃につけられた名前だかららしい)
 もしウラノメトリアがいろいろな言語に翻訳された時、さっぱり意味や魅力の分からないタイトルも少なくないだろうと心配になった。
 日本のほうが勘違いする逆の例もある。ブルクミュラーの「シュタイヤー舞曲」が長い間「スティリアの女」であったりしたように。少々異なる例になるが、日本のレモンに対する爽やかな印象も「酸っぱくて食えない奴」という意味に捉える言語もある。だから言葉の使用には気をつけなければならない。ただし、優れた翻訳者は「レモン」ではなく、その国における爽やかなイメージの言葉に置き換えることだろう。映画ではしばしば行われていることだ。
 手許にはもう一冊佐々木教授の著書「女の日本語 男の日本語」がある。今夜が楽しみだ。