12月5日(金)

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 12月4日のNikkeiNetのBIZ+PLUSに小峰隆夫氏(法政大学大学院政策創造研究科教授)による「実感される景気後退」というコラムが掲載されており、今回の景況観が分かりやすく解説されている。

http://bizplus.nikkei.co.jp/keiki/body.cfm?i=20081202kk000kk

 自動車関係の企業の業績悪化は毎日のように報道されており、今日はホンダがF1撤退を表明したというニュースがあったが、残念だという感想は持っても、おそらく誰も驚かないだろう。今回の自動車産業の凋落の原因は原油価格の値上がりと世界的な金融危機によるものであると説明されているが、もうひとつ、自動車産業虚業要素があったことも否めない。
 自動車の普及期にクルマはステータスシンボルだった。人々は、自分自身の表現方法のひとつとしてクルマを選んだ。現在読書中の「人は見た目が9割」で扱っている「ノンバーバーバル・コミュニケーション」に関連付けて言うならば、軽自動車と黒塗りのベンツは明らかに非言語コミュニケーションの役割を果たしている。そこに着目して虚業としての売り上げ増加を狙ったのが、今の自動車業界である。
 本当に必要なクルマは、現在走っているクルマのうち、台数で言えば何割くらいなのだろうか。そしてサイズや性能でいうならばオーバークォリティな部分がどれほどあるのだろうか。もし、自動車業界が安価で、安全で、充分にして必要最小限な性能を持つクルマだけを作っていたら今ほど巨大な産業にはならず、今回のような金融危機の際にもここまで大きな影響を受けなかったに違いない。ただし、自動車産業の隆盛がなければ産業界全体の規模がもう少し小さかったかも知れないので、功罪両方があったことも一応考慮する必要がある。
 アメリカは金融市場安定のために「金融安定化法案」を成立させた後も、各方面に次々と公的資金を注入することを検討したり、決定したりしている。9月だけで1年分の米ドル紙幣を増刷したというニュースを聞いてから、それを日本が円高対策として買い支えているということを知ると日本は大丈夫かと心配になる(その原資が郵貯や年金だったりしたら目もあてられない)。非兌換紙幣の増刷はかなり危険な選択肢であり、このままいくと、アメリカドルはジンバブエ・ドルとまではいかないまでも、価値が下がり続けることになるだろう。

参考URL 時間がある方は変化する数字を逐一追って行くと、経済破綻というものがどれほど凄まじく底なしであるのかお分かりいただけるだろう。3面記事的な興味で読みたい方は下のリンクをどうぞ。

ジンバブエ・ドルwikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジンバブエ・ドル

世界最悪水準、ジンバブエの超高額紙幣を写真で紹介(2008年10月27日なので、12月の現在は指数関数的にインフレが進んでいる)
http://digimaga.net/2008/10/zimbabwean-bill-real-crisis.html

最新情報を知りたい方はこちら(12月5日に報じられた新紙幣発行ニュース)
http://www.afpbb.com/article/economy/2546007/3585412

 上記のニュース・情報は興味半分で掲げたものではなく、2009年の日本経済があまりに不透明であるために、日本そのものがハイパーインフレに巻き込まれたり、あるいは預金封鎖のような事態に発展しても決して不思議ではないような気がしているからである。その時は年金支給減額や停止がセットになることだろう。ハイパーインフレが起こると、10倍のインフレならば、預貯金は10分の1の価値になってしまう。爪に火をともすようにして貯めてきた預貯金が水の泡と消えて行くさまを見て、誰もがため息をもらすことになるだろう。生命保険も同様である。
 ほんの少し前まで(今でも?)、子どもたちに勉強をさせて将来に備えようと考え、そのために私立学校教育に頼らざるを得ない(根拠なき依存、あるいは信仰を持つ)人々も多くなったが(私は私立学校教育に反対しているわけではない。選択の理由や根拠に疑問を持っているだけである)、おそらく確固たる判断の基準は持っていないことだろう。過去の結果が未来につながるとは限らない現代では、子どもたちが、この不透明な世の中を無事に生き抜くために必要な力は、現実を認識する力と局面ごとに異なった対応をとることのできる柔軟さだろう。それを実現するのは学校教育ではなく、社会教育(技術教育であったり、実務教育)だろう。
 終身雇用が崩れた段階で、企業頼りの人生設計はギャンブルとなった。では、公務員はどうかというと、日本のデフォルト(債務不履行)時には真っ先に被害を被るかも知れない。少しでも“よい企業”(すでに幻想のように聞こえる)に採用されるために勉強するのではなく、子どもたちには、よりよい人生のために学ばせたいものだ。
 いずれ、また景気が回復して人々は何ごともなかったように暮らし始めるかも知れない。しかし、それが砂上の楼閣ではないと誰が言えるだろうか。