12月31日(水)

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 全ての大掃除を終え、お節料理の準備中。少々休憩をもらった。忙中閑あり。段取りが悪いと忙しくすることができず、したがって閑も生まれない。
 今日の掃除はフィットネスを兼ねて床の拭き掃除。白い靴下が白いままの床をモットーとしている作曲工房なので、狭い範囲を丹念に、しかも力いっぱい汚れ落としをする。気合い入りまくりだったから明日は筋肉痛になることだろう。なんという幸せだ。
 家事をしていると、いろいろなアイディアが浮かぶ。ミンコフスキーが20世紀初頭に導入した光円錐は、物理的事象の地平線の広がりを定義した。実際にはインフレーション期などがあって、まるで円錐ではなく、しかも4次元上の話だから実際には少しも正確に思い描けないけれども、これが人類にとっての全宇宙。ところが、人間が知っていることは、それとは少ししか重ならない。身近なことには多少詳しいものの、いわゆる“神の視点”には程遠い。だが、少し待て。だからこそ宇宙において普遍的な物理法則を導き出すことによって知らない遠い宇宙をも理解しようとしたのではないか。
 それを今度は音楽世界に置き換えてみる。詳細は省略するが、音楽世界では普遍的な原理のようなものが存在するような気がするものの、実はしないのではないかと思う。一例を挙げるならば、一部のいわゆる有名音楽学者が校訂した楽譜は権威を持ちがちだが、彼らはそこに説明するための法則を持ち込む。あるいは、間違いが決して少なくない自筆譜や初版を原理主義的に信じ込む。その結果、作曲家が考えていたこととはかけ離れたような校訂版ができあがったりする。ドビュッシーバルトークが校訂したバッハ、モーツァルトショパンなどの楽譜は作曲家の視点から見ると大変すばらしい。にもかかわらず彼らの校訂譜が評価されないことが不思議でならない。彼らは作曲家としての視点から、その場その場に応じてもっとも適切と考えられる判断を、自らの美学に照らし合わせてくだしたに違いない。しかし、一部の音楽学者は自らを納得させるために、後付けされた理由による判断を優先し、作曲者ならどのように判断するかという肝心な点は(たぶん分からないので)なおざりにしている。楽譜の校訂は、まず弾いて弾いて弾き込むところから始まらなければならない。作曲者と同じくらいその曲の美学を理解することが重要だろう。
 映画一本を本当に理解するには、脚本家と同じだけ物語を考え、監督と同じだけ演出を考え、俳優と同じだけ演技について考え、カメラマンと同じだけアングルとカットについて考え、照明担当者と同じだけ光の効果について考え、大道具・小道具についても、衣装についても、ロケハンについても、編集についても考える必要がある。
 日本の映画監督が巨匠と言われる映画監督について話したのを聞いた時、その視点の多様さ、細かさにおどろいたものだ。
 芸術に絶対という法則はない。作曲工房では校訂譜に挑戦している人が少なくないが、誰もが自らが力を発揮すべき最高の場に出会ったと感じていることだろう。そもそもピアノのレッスンをするということは、自らの校訂譜を持つところからスタートしなければならない。そうでなければ、それは、あやふやさの消えない“印象レッスン”になってしまうのではないか。