1月26日(月)

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 今日は、朝からずっとレッスン。体力つけなきゃと、遅い昼食でニンニクをいくつも焼いて食べた。おそらく午後以降のレッスンはニンニクくさかったことだろう。こんなところで謝っても仕方がないが、ごめんなさい。
 音楽コラムにいつか書きたいと思っていながら考えがまとまらないテーマが「行為の品質」だ。コストのかかる生活が上質な暮らしというわけではないのは誰もが知るとおりだが、モノに対しては「良いモノ」を感じ取ることができる人でも、行為の品位については甚だ怪しいのではないか。
 ピアノを弾くことに意味があるのか、という問いに答えるのは容易いことではないが、その姿勢次第では限りなく高品位な行為になり得るだろう。なぜなら、音楽史における大作曲家たちの才能とセンスは他のあらゆるジャンルを超越した高みに到達しているからだ。さらに、その楽譜を校訂したり、大作曲家たちの境地を目指して作曲するという行為が高い品位でないわけがない。問題は、そこまで到達することが困難であることであり、高みがどこにあるのかさえ定かではない。
 詩人というのは小説家よりもさらに深いイマジネーションが必要である。どちらがエライか、ということを言っているのではない。そして、俳人は詩人よりもさらに深いイマジネーションが必要である。裏返して言うと、ボンクラ詩人とボンクラ俳人が輩出されやすいということにもなりかねないということだ。音楽は、その抽象性のために、とんでもなく大変なことになっていると言えるだろう。その代わり、正しい姿勢で音楽に向かえば高い品位という可能性が保証される。
 目指せ、高品位な日常。