2月6日

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 才能とは、言い換えるならば「価値を認める力」である。
 「価値」と「価格」は全く異なるもので、それを単純に説明すると、価値は「自分にとっての大切さ」であり、価格は「他人が感じる大切さ」ということになる。
 「なんでも鑑定団」というテレビ番組は、そのあたりがごっちゃになっているので、それを理解すると見方が変わってくることだろう。まず、鑑定というのは「真贋の判断」を指す。「真贋」について厳密に書くと長くなるので少しだけ説明するが、ルネッサンス期の絵画工房では親方画家と弟子たちによる共同作業による絵画制作が当たり前だったので、何割を親方が受け持てば真作というような判断が難しい。親方が全く筆をくわえていなくとも、親方本人が「よし」と認めた作品であるならば、それは真作と認められたりする。19世紀のガレなどのガラス工房でも事情は同じだ。だから真作は素晴らしくて贋作はダメとも言えない面がある。本当の価値は作品そのものが持っているのであり、仮に天才的贋作者の作品が本当に素晴らしくて、見る人もそれが分かるほどの天才ならば、そちらに価値を見いだすこともあるかも知れない。まあ、とにかく鑑定とは真贋の判定を指す。鑑定は勉強すればある程度できるようになるが、真の価値の見極めは勉強くらいではできない。ピカソはラスコー洞窟の壁画を見て「人類はいまだこの領域に到達しえていない」と言った。彼が天才である証拠かもしれない。
 さて、価格を決めるのは「査定」である。査定は市場価値によって決まるので、作品の価値と一致するわけではない。むしろ一致しない。市場というのは価値の判断などしたくない人たちのほうが多いからである。人々が知りたいのは、儲けるために需要があるかどうかを知る指標としての価格の変動である。怪獣のソフトビニール人形が高値となるのは作品の価値ではなく、市場における現在の需要の大きさである。つまり、他人がどのように思っているかである。それも、作品が素晴らしいというよりも、生産数が少ないなどの、少なくとも芸術に関わる者にとっては信じられないような理由で価格が決まる世界は全く信頼できない。
 それらが一緒くたになって人々が値段を見て一喜一憂しているところが実に惜しい番組であると言えるだろう。老人の趣味と思われていた骨董に、すぐれた美術品としての一面を知らしめたという点において大きな役割を果たした点は高く評価できる。 怪獣ソフビ人形に郷愁を感じる世代がいなくなれば、それらは昭和の資料の一点となるだろうが、現在の査定価格を維持しているかどうかは分からない(まず確実に下がるだろう)。その時代まで番組が続けば、人々も本当のことに気づくかも知れない。
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 才能とは、他人の意見(大抵は勘違いである)に惑わされることなく、自ら価値判断を下して行動する力である。健康のためにジョギングしなくては、と思っていながら行動に移せない人は、実は健康の価値やジョギングの効果を確信できるほどの判断ができていないだけのことである。
 たった今、私たちが何を為すべきかが分かるようであれば、私たちは確実に自分の道を進むことができることだろう。

※勘違い=事実とは異なる認識。勘違いを避けるには事実の正確な把握以外方法はない。