2月5日

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 “努力”を否定するわけではないが、努力は美化されすぎているのではないか。
 努力と直結するイメージが“真面目”だと思うのだが、真面目な努力家が到達できるのは周囲からエライと思われることくらいだろう。しかし、それも勘違いかも知れない。
 何を言っているのだと思われてしまうかも知れないが、単なる真面目というのは硬直した思考の言い換えとしか思えない。ひょっとして世に言う“真面目”が“誠実”という意味合いであるのならば、それには同意できる。しかし、いわゆる真面目な人は、人をだまして儲けるような会社に勤務しても“真面目”に働いてしまったり、環境破壊に加担するような会社でも“真面目”に環境を破壊してしまうことがあるのではないだろうか。
 毎日1000回バットを素振りするという努力によって名選手になれるのなら、2000回やれば更に名選手になれるのだろうか。努力ができるということ自体、人として強靱な精神力の持ち主である証明だが、努力だけで全てを成し遂げることは難しいように思える。だからと言って、才能が全てを決めるわけでもない。決して才能を侮ることはできないが、才能を生かせる人は非常に少ないと言って間違いないだろう。人は才能で動くわけではないからだ。
 不真面目は論外である。不真面目というのは不誠実、意志薄弱、自己中心などの考え方が行動として表れたものだからだ。
 私たちは常に「何をすればよいのか」を考え続ける必要があるのだと思う。「何をすればよいのか」を言い換えると“発想”になる。発想は“違和感”や“やり尽くしたという退屈感”の先にある。そういう発想はコンスタントにやってくるものではない。真面目というのはコンスタントな行動を取ることが必須条件なので、すでに真面目とは相容れないスタンスである。
 すぐれた発想がやってくると、そこから先は努力などいらない。なぜなら、やらずにいられないからだ。努力というと辛さを我慢するイメージがあるが、発想を得た時にはワクワク感に包まれて夢中になってしまう。
 ダム建設などの巨大プロジェクトが一度始まってしまうと、時代が変わって不必要になったとしても止まらないことがあるのは、一種の“真面目”主義と言ってもよいだろう。
 私たちは考え続けなければならず、考え始めると立ち止まることもあるものだ。
 念のためにつけ加えておくが、誠実という意味における真面目を否定するものではない。だから、一律に“真面目”がダメだと主張しているわけではない。