2月4日(水)

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 私には“いわゆる絶対音感”がないので、若い頃(中学生ころか?)には作曲家にはなれないと思い込んでいた。ところが私自身がピアノのレッスンを行なう側になってみると、半分以上の子どもたちが程度の差こそあれ絶対音感を持っていた。要するにピアノの習い始める時期に左右される能力らしい。門下のS君は作曲のクラスで絶対音感がないのは彼一人だけであると言っていた。
 そこで、耳が良いというのはソルフェージュ能力が高いとか聴力検査の成績が良いとかではなく、音楽を聴き取る力なのではないかと気づいた。
 音楽を聴き取る力と言ってもいろいろな要素・側面がある。
 たとえば、作曲課題で四六(第2転回形)の和音を不適切に使う人がいるのだが、それは、おそらく過去の大作曲家たちが持っていた四六の和音の特別な響きに対処するセンスを聴き取れなかったのだろう。ドビュッシークラスになると、四六の和音の誰も気づかなかった美しい用法を編み出してしまう。ラヴェルも素晴らしい耳の持ち主で、あの小さな「ピアノのためのソナチネ」でさえ、驚きに満ちた和声で溢れている。
 中学生の頃、私にとってショスタコーヴィチは先進的な作曲家だった。やたらカッコいい作曲家だったのだ。バルトークプロコフィエフは非常に前衛的に響いた。その頃のあこがれは、私の「バラード」(1970/1985)によく表れている。ところが、それから間もなくショスタコーヴィチ交響曲は私の中で古典と化し、プロコフィエフピアノソナタ第7番を筆頭にポップスとなった。ストラヴィンスキーの“春の祭典”も細部まで聴こえるようになって、もはやスクリーンミュージックのような聴きやすさだ。聴きやすいからダメだと言っているのではない。何がすぐれているのかがよく分かるようになったのだ。
 調の選択も面白い。前述したように私は絶対音感を持っていないので聴いただけでは何調なのか分からないことが多い。しかし、調の選択が厳密なものである作曲家たちの耳の聴こえかたが分かる気がするのだ。たとえばCisとDesの響きにこだわった作曲家にベートーヴェンショパンドビュッシーがいる。月光ソナタの第1・第3楽章はcis mollで書かれているが、第1楽章冒頭部を他の調に移調すると雰囲気が変わってしまうことに気づくだろう。第2楽章はCisのエンハーモニックであるDesを主音とした長調で書かれている。熱情ソナタの第2楽章もDes Durである。ドビュッシーは「月の光」をDes Durで書き、「牧神の午後」冒頭もフルートのCisでスタートしている。 月光ソナタ第3楽章からインスピレーションを受けて書かれたショパンの幻想即興曲はもちろんcis mollだ。ドビュッシーの「グラナダの夕べ」もCisが支配的である。ショパンにはcis mollとDes Durに名曲がたくさんある。私が知っているベートーヴェンのcis mollの作品は月光ソナタ弦楽四重奏曲第14番だけだが、どちらも名曲だ。
 オーケストレーションが聴こえてくるとその面白さは格別だ。オーケストレーションの命は「クリアリティ」にあると思っているが、「オーケストレーションの神様」と言われているリムスキー=コルサコフの作品に、その神々しさは感じない。むしろ、弟子のレスピーギのほうがずっと素晴らしい音を作る。しかし、なんと言っても他を圧倒するのがヴォーン=ウィリアムズだろう。ひとつひとつの楽器が透明度の高い地底湖でも眺めているように聴こえてくる。
 和音の配置も気になる。ツェルニープロコフィエフは(ピアノの)低音でも密集位置を使うが、モーツァルトとバイエルは決して使わない。ショパンは絶妙なユニゾンを使う名人だ。
 絶対音感とは違って、音楽を聴き取る力は年齢で決まるのではないだろう。どれだけ真剣に音楽を聴けるか、という問題だけなのではないか。集中して音楽を聴くというのはとても難しい。私がもっとも集中して音楽を聴くのは、作曲する時よりも、むしろ自作品を校訂して決定稿を仕上げようとしている時だ。この時の集中力はそれこそ“ハンパ”ではない。