3月11日(水)

19401

 一日遅れの日記。
 昨今心配されることのひとつに、メディア報道がある。メディアの責任を問おうとうだけではなく、受け取る側の問題と合わせて提起したい。
 そもそも「客観的で公正な報道」はあり得ないということを認識すべきである。「日本のメディアは、一部の国々と異なって検閲などがないから客観的で公正・公平な報道が行われている」と考えている人がいたら認識をあらためる必要がある。報道する側に悪意があると言っているのではない。客観的な報道など「あり得ない」と言っているのだ。
 真に客観的な報道があり得るとしたら、誰が取材に行っても全く同じ記事になるはずである。仮に架空の事件である「サルガッソー海で頻発する海賊事件の現場」に日本人全員が取材に行って記事を書いたら、同じ記事が書けるだろうか。海賊行為を非難する記事、海賊行為を行わなければ生活が成り立たない人を見て、その支援をしなければ海賊行為はなくならないという記事、海賊行為によってテロの資金が生じるのでもっと国際協調による取り締まりが必要だという記事、各国が競って軍事部隊を派遣してお互いをけん制し合ったり、あるいは功を急いだあまり民間漁船を銃撃してしまったりしたことを伝える記事、日本の自衛隊が海外で作戦行動を取ることの是非に関する記事など、異なる視点のさまざまな記事が書かれることだろう。選んだ題材そのものが、すでに取材者の主観的なメッセージとなっているはずだ。
 あるいは「大規模な戦闘が行われた」という記事の場合、大規模とは何を指すのか。火薬は何トンも使用されたが死傷者が1名も出なかった場合と、あっという間の小競り合いだったが死者が出た戦闘ではどちらが「大規模」なのか。結局は、取材者の主幹が入らざるを得ない。私たちは、それを承知の上で報道に接しなければならない。
 記者会見で「決してやっていない」、あるいは「そのようなことは決してない」という発言があった。というニュースに関しても、その発言があったことは事実であっても内容が事実であるかどうかは私たちの判断に委ねられる。
 音楽コラムで何回も述べてきたように「すぐれている」ということは「本当のことがわかること」である。事実と異なる発言、理論には必ず矛盾があり、すぐれた人はそれを見抜くことができる。
 音楽には限らないが、ピアノを学ぶにしても作曲を学ぶにしても、練習だけしていて真の上達があるとはとても思えない。まずは「人間力」を育てることだ。
 昨今のニュース報道は真実が見えにくいものが多くなっている印象がある。かんぽの資産売却問題、中央郵便局保存問題、民主党小沢代表の献金問題に対する検察の捜査、経済対策の遅れ・・etc. これらの問題について、私たちはどれだけ正しく語ることができるだろうか。自戒も込めて、問いたい。