6月19日(木)

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 昨日、尾崎知子さんから、9月6日(日)に開かれる「夏の終わりのコンサート」のプログラム原稿チェックのメールが届く。
 野村茎一特集を組んでくださるとは、お礼の言葉もない。世の中から高く評価されているわけではない無名作曲家を選ぶということだけで大変なことだ。
 定期便に書いたが、選ばれたのは全て「“ウラノメトリア以前”時代」の曲ばかり。選曲に一貫性がある、ということは尾崎知子さんには明確な音楽ビジョンがあるということだろう。
 実を言うと、この時代の曲は人気が高い(それに関しては、少々忸怩たる思いがあるが)。ウラノメトリア以前時代の最後を飾るのが「60の小練習曲集」で、これも人気がある。では、ウラノメトリア以後時代は人気が落ちたかというと、人気という点では、多分そうだと思う。ウラノメトリアを好んでくださる皆さんでさえ、まだ“ウラノメトリア“という考え方に気づいていないかも知れないと思うのだ。しかし、それは時間が解決してくれることだろう。

 未発表の音楽コラムに記した文言からの抜粋。

 オリジナルとは自己の発見。優れたクリエイターであれば、自己の発見がそのまま新境地の開拓となる。ところが開拓者は常に孤独である。なぜなら鑑賞者は全て過去に飼いならされているから。真の芸術は精神を磨く触媒として作用するが、自己判断できない鑑賞者には作用しない。それら鑑賞者に影響を与えるのは世間の評価のみである。

 ベートーヴェンの「英雄交響曲」が初演されたとき、評価は真っ二つに分かれた。過去に飼いならされた評論家たちによる否定的な意見(聴き慣れていないからいやだ)と、そこに未来のあるべき姿を見いだした作曲家たち(求め続けていた未体験の領域だ)。
 ところが、薬が効きすぎてしまったのか、ここから妙な学び方をしてしまった人たちが大勢現れ、100年もたたないうちに「まだ誰もやっていないこと」をやることが未来だと思い込んだり、新しい事を認めないと「理解力のない、単に保守的な人間」に思われてしまうと怖れるようになった。要するに「裸の王様」の世界である。
 今までに何回も書いてきたように、20世紀中葉には、いま聴くと“恥ずかしい”音楽が大量に作られて、それをみんなが大まじめで聴いていた。
 作曲を習いに行ったら「無調で書きなさい」と言われた、という話を聞いた事がある。私は決して調性音楽を支持しているわけではない。「無調でなければ調性音楽」と思った人は「砂糖の反対は塩」と思っている人に近いだろう。私なら「もっと自分の表現の可能性を広げるように」と忠告する。無調は、あくまでも作曲技術のひとつに過ぎず、作曲を学ぶ目的は表現方法と表現領域の拡大にあるはずだ(作曲する目的は、前述したように自己の発見)。
 重要なことは、聴衆に技法を意識させるような音楽はダメだということだ。マルタンの「小協奏交響曲」の冒頭主題が12音で書かれていることなど全く気づかなくてもよいのだ。「なんと美しい旋律だろう!」と感激だけしていればよい。それこそが真の作曲技法というものだ。ラヴェルの「弦楽四重奏曲」を聴きながら「おっ、これは部分動機aだ、これは部分動機cの反行形だ」などと考えながら聴く人がいるだろうか。もちろん、作曲を勉強中の人はそういう聴き方が面白いだろうが、まんまとラヴェルの術中にハマって「ラヴェル最高!」と感激するのが一番だろう。