6月23日(火)

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 父の定期通院に付き添って、待ち時間に「にせもの美術史」再読。著者はニューヨーク・メトロポリタン美術館館長時代のトマス・ホーヴィング。
 人生は真実を明らかにしていくためにあると言っても過言ではないだろう。流通している美術品の大半は贋作であり、美術館の壁面にさえ贋作が堂々と飾られていると著者は言う。彼は運良く“本物の贋作者”と出会い、親しくなってその秘密を知る機会を得た。その後、各地の美術館で彼の“作品”と出会うことになる。また、逆に本物の美術品鑑定家とも出会って、彼からも多くを学ぶ。しかし、実際には人から学んだのではない。彼らは言う。
「これを見てごらん」
 そう、事実から学んだのだ。しかし、どこに着目するかという最大の問題については彼らから学んだ。
 どのキズが先についたものなのか? 修復痕は本物か?
 音楽にも似たような問題が起こることがある。それは自筆譜からしか読み解くことができない誤植、あるいはその逆。ドビュッシーアラベスク第1番にも、前半ではFisであるのに再現されたときにはGisとなっている音がある。これはGisに変えなければならない理由が見当たらないので、Fisではないかと考えているが、自筆譜を確かめてみたいもののひとつである。もちろん自筆譜もGisになっていることだろう。だから、どの出版社の楽譜もGisになっている。しかし、確認したいのはそこではない。ベートーヴェンの月光ソナタ第1楽章の自筆譜は終止音のひとつ前にFisとEにまたがって書かれた判読不能の二分音符がある。しかし、その前2小節にドミナントが現れないので、ここはFisとしたほうが自然だろう。ショパンのように自筆譜の異稿がいくつもある場合にはやっかいだ。むしろ、音符以外なにも書かれていないバッハの楽譜のほうが分かりやすい。だから校訂もはかどる。
 作曲は自分自身の真実を明らかにする行為である。