11月8日(日)

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 昨日の夜、レッスン終了後に急に寒気とだるさを感じて風邪を疑った。今朝、寝汗をかいて目覚め、熱を計ると平熱。
 午前中にレッスンが1コマ。その後、三枝君と千賀子先生のピアノの発表会を聴きに高崎に向かう。
 現在のピアノ発表会はレッスンの延長線上にある要素と、そうでない部分によって成り立っている。ステージ上は、振るまいから見れば非日常である “ハレ” の場であり、レッスンは日常の “ケ” の場である。しかし、ステージ上に、そのまま “ケ” が持ち込まれたりするのに、演奏はその逆で、レッスンがそのまま表現されるのではなく、特別な場として困難な曲が選ばれて演奏されたりする。それが良い結果を生むとは限らない。今日のステージの終演後、司会の方が「練習は嘘をつかない」と仰っていたが、まさにそのとおり。
 発表会がうまくいかないとしたら、それはレスナーだけの問題ではない。ピアノレッスンをとりまく環境の全てが少しずつでも変わっていかなければ問題は解決しない。
 今日の発表会では、千賀子先生の生徒の皆さんは、昨年と比べて進歩が感じられた。ということは千賀子先生自身が進歩したということだ。さらに、我々作曲家がさまざまなレベルや場面に応じた良いレパートリーを提供できるかどうかも重要なポイントだ。
 ショパンドビュッシーをはじめとするピアノの大作曲家たちの多くは、初心者向けの曲を書いていない。もっとも人口の多いピアノ初心者のためのレパートリーが決して多くないというのはよい状況ではない。
 「よいレパートリー」とは「演奏者が、その音楽性や力を発揮できる曲」であり、それは「伝統に則った正統な楽曲」でなければならない。「伝統に則った」というのは古い音楽を指すのでも音楽ジャンルを指すのでもない。人類が蓄積してきた音楽財産を継承しているという意味である。それがなければ、人類は文化的には未だに原始人であることだろう。
 娘のところに成人式の着物の案内が届くのだが、そこには日本人が数百年かけて築き上げてきた「着物文化」を感じることが難しい「謎のコスチューム」が並んでいるように見える。日頃、着物に触れることが少ない若者たちが、今もっているセンスだけで着物美を判断することが難しいためのやむを得ないことなのだろうが、この新・着物が洗練されていくためには、また長い時間を要することだろう。しかし、日常として用いない限り、それが洗練されていくのは難しいことだろう。
 ピアノによって表現される音楽が洗練されていくためにも、私たちは過去の音楽遺産から受け継ぐべきものは受け継ぎ、新しくしなければならないものは、そのようにしなければならない。今日の帰途、三枝君と新しいレパートリー開拓を進めることを確認しあった。