5月15日(土)小林愛実 14歳のショパン・リサイタル

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 今日は何から書けば良いのだろう。朝5時半になってから眠りについたことからだろうか、それとも買った品物を私がスーパーマーケットに忘れてきてしまったことからだろうか(カミさんがあとで受け取りに行ってきた、とメールがあった)、アークヒルズのサブウェイのアルバイトのやりくりがつかずに店長がひとりで切り盛りしていたために店の外まで客の行列ができているのに店内はガラガラ(サンドイッチを作るよりも、客が食べる時間のほうが短い)であったことだろうか。
 普通なら日記のタイトルであるコンサートについて書くべきなのだろうが、今日はコンサートからの帰路に考えさせられる場面に出会ってしまったために、そちらに心がザワついている。
 快速停車駅に住んでいるおちゃめさんとたまりんと別れて各駅停車に乗って何気なく周囲を見渡すと、全く別々の場所にいる2人の男性が目に入った。2人はそれぞれスナック菓子の袋を持っていたが、楽しみに食べているという感じではなかった。一人は袋を傾けて直接中身を口の中にザラザラと流し込みながらしきりに何かを勉強していた。もう一人は、猛烈な速さで次々と口に放り込んでは飲み込んでいた。要するに、それは彼らの食事としか思えなかったのだ。一人は私くらいかあるいはもう少し年上、もう一人は30歳くらいのヨレヨレのコートを着た会社員風。ふたりともあまり健康そうではなかった。文字では伝わりにくいのだが、非常に厳しい暮らしを余儀なくされている印象を受けた。20世紀の末頃には「一億総中流時代」というものがあったのではなかったか。世論調査の結果、自分の暮らし向きが「下のレベル」と答えた人が一割を切った時代もあったのだ。その頃の人々が全て優秀であったということではない。現代は、すでに個人の努力で生活の安定が勝ち取れる時代ではない。
 経済的な問題だけではない。生活の基本技術の外注化(コンビニの出現と浸透、パックご飯のような省技術化小品の普及)が進んだために、生活の基本技術と習慣を失う人々が増えてきたことも問題だろう。半世紀も前なら「結婚するのが当たり前」で、離婚率も非常に低かった。昔だって全ての夫婦がうまく行っているわけではなかった。離婚は「みっともないこと」だったのだ。だから、男たちは食事や洗濯、掃除には困らないという部分が確かにあった。女性の犠牲の上に男が胡座をかいていた時代よりは今のほうがずっとよいが、解決されずに先送りされてしまった問題も多い。男の家事意識もそのひとつだ。
 一人暮らしで健康を維持して長寿を保つには才能と努力が必要な時代が現代なのではないか。長時間労働を強いられれば、すぐに家事は滞ることだろう。後は悪循環が待っているだけだ。家庭科の男女共習は遅すぎたくらいだ。つまり、ほんの少し前まで、家事は女性が行なうことだと学校が教えてきたということだ。だから家庭でもそれが常識と捉えられていた。
 
 私のようなクラシック系の作曲家は常に失業状態にあるようなもので、カミさんが頑張って働いていてくれないと生活は成り立たなかったに違いない。今の私があるのは、かなりの部分を“運”に頼っていたとも言えるだろう。誰よりも仕事をしているという気負いはあるのだが、収入に結びつかなければ“趣味”の領域と言われても仕方がない。
 人口が減ってマーケットも縮小の一途をたどるような時代には経済規模の拡大を願うよりも、GDPにはカウントされない「できることは自分でやる」生活が一番なのではないだろうか。半農・半Xができる人は地方のほうが暮らしやすいだろう。都市への人口集中も緩和されるかも知れない。国はライフラインの整備と医療、教育、および介護問題を中心に取り組めばよい。あとの多くの問題は民間に任せられないものだろうか。

 前置きが長くなった。今日のタイトルである「小林愛実 14歳のショパン・リサイタル」について書く。
 一言で表現すると「第2の内田光子」登場である。彼女の打鍵の9割はピアニッシモ。声部の分離がはっきりしているので、ポイントとなる音以外は、全てバックグラウンドで真珠のようにやわらかい輝きとなって鳴る。それはもう、驚くべき技術だ。ピアニッシモをガンガン全力で弾くような印象。おまけに無駄な(無意味な)テンポルバートは全くない。全ては予測可能なアゴーギクによって表現される。ショパンエチュード作品10から3曲(3、4、5)が演奏されたが、どれも絶品。ポリーニの「ショパンエチュード」がますます霞んでしまうような名演だった。マズルカ作品63-3も遺作のワルツe mollも素晴らしかったが、ショパンエチュード3曲が光り輝いていた。第1部の終わりは「バラード第1番」だったのだが、これも違う意味で名演だった。彼女は30小節目あたりから10小節ほどを飛ばしてしまったのだが、全く演奏が滞ることなく続いていたので、バラード第1番を初めて聴いた人には間違いが分からなかったのではないだろうか。このようなアクシデントにも全く動じる事なく、彼女は堂々と演奏を終えた。
 第2部はピアノ協奏曲第1番。オケは「ショパン祝祭オーケストラ in Tokyo」という多分寄せ集めの団体。にもかかわらずとても良い演奏だった。日本のオケのレベルは本当に高いと感じる。偶然、ロッテルダムフィルを聴いた時と同じ席でステージを挟んで一般席の反対側、4番ホルンのベルの前のP席。オケはロッテルダムに一歩もひけをとらなかった(アンサンブルはむしろ上か?)。指揮のミハウ・ドヴォジンスキという人はポーランドの31歳という若手。節度ある指揮と演奏は、あくまでもソリストを主役とすることに成功していた。全く名前を知らなかったけれど、将来は有名な指揮者となるのではないだろうか。
 アンコールは遺作のノクターン。ピアニッシシシモのトリルの美しさに脱帽。隣りの席にいた調律の中山宏一さんが「知らない楽器を聴くよう」と表現しておられた。まさにそのとおり。彼女はピアノを「再発見」したと言えるだろう。CDやYoutubeの動画では決して聴くことのできない生音だ。
 どれだけ拍手が続いても、アンコールはその1曲だけだった。それもよい判断だ。すでに大物の風格だ。彼女と同じ時代の空気を呼吸できるだけでも幸運と言わなければならないだろう。
 「小林愛実」というピアニストの登場によって、これから音楽の世界も徐々に変わっていくはずだ。