7月31日(土)

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 我が家はマンガの地位が高い。以前も書いたように、子どもたち(つい最近全員が成人したが)は、黎明期からマンガ史に沿って強制的に読ませられて育った。もちろん文字文学も読むし、アニメも映画も観るが、文字文学偏重の風潮には批判的な面も持つ。
 そもそも映画と小説(文字文学)は全く異なる表現媒体であり、優れた映画は小説を遥かに凌ぎ、優れた小説は、まさにその逆である。マンガは遅れて現れた表現媒体なので、コンテンツが映画や小説に追いつくまで時間が必要だった。
 娘の“たろ”は「マンガを読まない人は駄目だ」と言う。マンガは映画を観る目と小説を読む心の両方が必要だ。映画の脚本を読むと、2時間の尺があってもほんの20〜30分で読了してしまう。つまり、それ以外の情報は映像から読み取っているということだ。小説は、それを言葉(文字に置き換えられた概念)によって伝えなければならない。優れた映画は、鑑賞者に過去の経験からの類推では到達できないクオリアを与える。しかし、裏返せば、そこに限界があるとも言える。文字文学は、そのクオリアを持たない者には理解不可能な壁を作り出す。その代わり、読者の能力限界まで読み取ることができる。厳しい言い方をすると、ほとんどの小説は作者のイメージの一部だけしか読者に伝わっていないとも言える。だからこそ、映画向きの内容と、文字文学向きの内容があることになる。では、マンガはどうか。
 マンガは映画と文字文学の中間のような気がするが、全く別の表現媒体である。ゆえに真にマンガ向きの内容が開拓されるまでには少しの時間を要した。
 昨日は10冊くらいのマンガが我が家の蔵書に加わった(もちろん古本)。いつもは長男の“風”だが、今回買ってきたのは“たろ”。浦沢直樹の「Billy Bat」も面白かったが、家族中でハマったのは大場つぐみ/小畑健が組んだ「BAKUMAN」。マンガ家を目指す少年たちとその周囲をリアルに描く内容。藤子不二雄Aの「マンガ道」と同じテーマを扱っているが、全く異なる視点による作品となっている。
 クリエイタースピリットをくすぐる内容に、みんなでハマった。有り金を使い果たしてしまった“たろ”は、1冊100円のカンパを募っていた。もちろん、みんな快く応じた。
 スポーツ選手も芸術家も最終目標は全力を出すことだ。全力を出しきるということは、ことのほか難しい。それは才能や意思の力だけでは無理だ。さまざまな要因が重なって初めて実現できると言えるだろう。BAKUMANは、そこを突くことに成功した。現在8巻まで出ている。

 今日は、世田谷区の“ちびまゆ”宅の新しいピアノ室にお邪魔してきた。ピアノはヤマハの90万番台のマホガニー色の木目ピアノ。良い木が使われていた時代だ。モーツァルトがよく使う中高音域が「ポポポポ・・」という魅力的な音に整音されている。ところが、部屋の音場が、そのあたりの音をよく反射してしまうのでキンキンとした音になってしまって少々もったいなかった。
 日本中の99パーセント(印象値)のピアノは、整えられた音場に置かれていないだろう。一般の建築家には防音室は作れても、音場までは整えられない。それができるのはその部屋でピアノを弾く本人だけだ。幸い、防音と違って、音場は後からいくらでも変えることができる。部屋には通常6つの面(天井・床・4面の壁)があるが、そのうちの3面の反響特性(高音と低音の反射率)をカーテンやカーペット、壁紙などで調節してやればよい。声楽や木管楽器なら残響は豊かなほうがよい。ピアノは少しデッドにしないと辛い。

 今日は夕方から楽譜を買いにでかけて、いろいろ面白いこともあったのだけれど、遅くなったのでここまで。