8月1日(日)

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 あっという間に8月だ。
 小澤征爾さんが指揮者としての仕事に復帰というニュースがあった。めでたいに決まっているが、ニュース映像に映し出された彼のやつれようを見て少々心配になった。白髪以外は老人ぽくなかった小澤さんが老人になっていた。真の健康を手に入れられんことを。
 今日の午前中はレッスン。午後は1Fのウォークインクローゼットの整理。カミさんは常日頃「物の整理は頭の整理」だと言っている。そうなのだ。そして、記憶に留められる量しか物を所有することはできない。法的には自分の所有物であっても、実質的には自分のものではない。
 物を所有し使うことはPCのソフトウェアと似ている。熟知しているソフトウェアだけが本来の働きをするからだ。ソフトウェアをいくつ持っていようが、熟達したソフトウェアしか持っていないのと同じことだ。
 夕方はグロッサリー類の買い出し。帰宅する道すがらNHK-FMの「現代の音楽」を聴く。マイケル・ガンドルフィという人の特集。知らない作曲家だ。聴き込みが足りないから即断は危険だが、今日の作品群は現代っぽい無意味な音の羅列としか聴こえなかった。作曲者の個性、あるいは曲ごとの個性を感じることが難しかった。猿谷紀郎さんも、意味があるような無いようなコメントでしのいでいた。すぐれたジャズミュージシャンがジャズに負けずに個性を打ち出すように、無調系の作曲家は、無調であることに負けずに自らを主張すべきだろう。駄目なジャズミュージシャンは、ジャズっぽく聴こえればOKと思っているフシがある。現代音楽の作曲家もいわゆる“現代音楽っぽさ”を追究しても、たちまち忘れられてしまうとしか思えない。
 そういえば、先週のN響アワーは「ミュージック・トゥモロー2010」だった。「水玉コレクションNo.06」はほとんど意味の分からない音楽だったが(西村朗さんは、すぐに分からないところがいいと言っておられた。本気だろうか?)、藤家渓子さんの「ギター協奏曲第2番」は彼女の才能を感じさせる作品だった。現代曲にありがちなのは、難曲でありながら演奏者にとっての楽しみは与えないという楽器の特質と奏者不在の音楽だが、これは違った。作曲者の夫君の山下和人さんがソリストを務めていたが、彼はこの曲の演奏に充実感を感じていたに違いない。
 さあ、こんな駄文を書いている暇はない。もうひと仕事だ。