8月15日(日)終戦の日

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 今日で第2次世界大戦終結から65年。
 終戦20年目(ひょっとしたら8月6日)を板橋の母の実家で迎えたことを覚えている。小学生だった。20年前なんてほんの少し前ではないか。当時は戦争経験者のほうが多くて、終戦の日の意味もずっと重かったことだろう。戦後世代にとっては過去の歴史になってしまってはいないだろうか。
 戦争反対を唱えているだけでは戦争はなくならない。国が予算を組んで開戦を阻止する方法についての研究を立ち上げるというのはどうだろうか。その研究と議論には国民のあらゆる年齢・職業の人々が参加できるようにする。そもそも第2次世界大戦は「専門家に政治を任せきりにしていた」ことも原因のひとつのように思えるからだ。

 今日のレッスンは横浜のAさん。大楽節を大楽節として書く練習。これは作曲の基本であり奥義。私自身、作曲のトレーニングと言えば大楽節を書くことだった。対位法の練習も大楽節ひとつでかなり複雑なことができる。いや、できなければならない。
 書くことと聴くことは同じくらい重要。聴くとは鼓膜を振動させることではない。スコアを目で読んでもよい。過去の大作曲家の技を読み解くことは私たちを前進させる。そのためには優れた曲を聴きこんで読み解いていくことが大切だ。私が運が良かったと思うのは、師事した先生がたが確かな鑑識眼(耳?)を持っておられたことだ。
 中1の時にモーツァルト40番の第3楽章を、中2でラフマニノフの協奏曲第2番を、中3でバルトークのミクロコスモス(第5巻、6巻からの抜粋)を目の前でアナリーゼしてもらった経験(その時は多分よくわかっていなかった)は、後に大いに役立った。
 作曲をする、ということは「限りなく高い完成度を目指す」ことだ。学習期に思いつくようなアイディアはキャパシティが小さく、すぐに天井にぶつかってしまうので大したことはないが、優れたアイディア思いつくようになると完成度を上げていくことが困難になってくる。
 たとえばバッハの「フーガの技法」の主題を与えられて、バッハに肉薄する完成度で曲を書き上げることができるだろうか。あの「未完フーガ」は形の上では完成していないが、内容の完成度の高さは怖いくらいだ。