8月21日(土)

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 装丁をお願いしている“うしお”さんから3β表紙の最終稿が届く。3βの完成がまた一歩近づいて大変嬉しい。βシリーズはコンサート・レパートリー集なので音楽理論やテクニックに関する記述はほとんどなく、楽譜だけが連なっている。
 今日、偶然「作曲の方法」について記されているサイトに出会った。アマチュアの方が書いているらしく、どう考えても見当違いの内容ではあったけれど、それはとりもなおさず作曲することの抽象性の高さを表しているとも言えるだろう。
 「“音楽”に聴こえる」というレベルならば小楽節ひとつにカデンツひとつを割り当てて、それを2回繰り返せば済む。しかし、それは作曲とは言わない。音楽を「音として鳴り響く美的内面」とするならば、作曲は「新しい音楽美学について、音によって語ること」である。
 問題は「新しい」の解釈だろう。
 20世紀中葉には「新しい」が、「全く新しい」あるいは「未知の」というような意味で理解されていた。料理に置き換えるならば「誰もたべたことがない食材」というようなことだ。生物としての人間は、数年で食性が変わってしまうほどの劇的な進化はできない。音楽でも同様であることは「調性から無調へ」という言葉が幻想であったことからも分かるだろう。実際の音楽は「長・短調2種の調性から数多くの旋法へ」と拡大した。つまり「新しい」という言葉は、既知の食材に新しい調理法を応用するというような意味ではないか。
 しかし、それは単なる言葉に過ぎない。作曲は「止むにやまれぬ衝動」で行うものだ。
 大学などで作曲を講義している人が全て作曲に全身全霊を傾けているとは限らない。うかうかしていると、たちまち新作のない期間が1年、2年となってしまうこともあるだろう。すると「自称作曲家」にならないように、一見難解な(つまり、凄そうな)室内楽などを書いて、演奏家を雇って作曲個展などを開いたりする。もし、日頃から作曲を委嘱されたりしていたらやらなくても済む行為だったりする(素晴らしい内容の作曲個展を開いていらっしゃる方もいますから、全ての人について語っているわけではありません)。
 批判めいたことを書いてしまったが、言いたいことはむしろ逆で、本来作曲家は無理に作曲する必要がない。何年書かなくともよい。作曲に対する情熱を失ってしまったら作曲と距離を置けばよいだけだ。作曲の委嘱などなければなくともよい。しかし、最初に作曲をしたいと思った時の気持ちを忘れてはならない。そうすれば、いずれインスピレーションを得られることだろう。
 「新しい音楽美学を音で語る」には、強烈なインスピレーション(ただし、それが正解であり、真実であること)が必要だ。インスピレーションは待っているだけではやってこない。だからこちらから接近していく。それには内なるエネルギーが必要だ。
 ひとたびインスピレーションがやってくると、まるで恋をしているかのように、ほかのことが目に入らなくなり(価値観の変化)、曲を書き上げるために自分の全てを傾けてしまう。人に全力を要求し、そして人が全力を傾けざるを得なくなるのが芸術なのだが、音楽は特にその傾向が強いのではないか。
 作曲は「ちょっとやってみる」というものではない。モーツァルトでさえ、全力を傾けなければ自分の作品として認めなかったことだろう。極論するならば、人は全力を出しきっている時だけ能力を伸ばすことができる。そのような状態で作曲を継続すると、バッハやベートーヴェンのような「作曲歴」を持てるようになる。そうでなければ、ベートーヴェン後期の作品群の密度と質の高さ、バッハの「ゴールトベルク変奏曲」「音楽の捧げもの」「フーガの技法」の奇跡は現実とならなかったことだろう。ライバルは常に音楽史であり、昨日までの自分である。いつも書いているように、時代を超えて音楽の命をつなぐのは演奏したい、聴きたいという演奏家や音楽愛好家の気持ちだけであり、作曲家は、常に音楽史上の大作曲家たちと比較されている。だから、音楽史の水準に達することを目的とするくらいの志がなければ後世に作品を遺すことはできない。その偉業に立ち向かう意欲は強い動機がなければ志をもつことすら難しい。
 作曲の勉強は必須だが、作曲の動機は情熱だと言ってもよいだろう。
 作曲の方法論は最初から最後まで「情熱」で語っても間違いではないだろう。ところで「作曲の勉強」とは、どのような音楽が優れているのかを知ることである。全ての音楽理論は、すぐれた作品から導き出されているからだ。