8月31日(火)フルートソナタ・リハーサル

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 朝から頭の中で、ずっとフルートソナタ(2007)のパーツが鳴り続けていて、リハーサルのもっとも効率的な、あるいは伝わりやすい手順を探る。表現には理由がある。もちろん誰にだってあるが、世の中にまかりとおっている理由の大半は自分を納得させるだけの怪しいもののほうが圧倒的に多い気がしてならない。だから本当の理由が必要だ。

 レッスンに通っているおチビだって、中学生くらいになれば少しはものの道理が分かってくる。そういう子たちにはウパニシャッド哲学のブラフマンアートマンの話をしたりする。それらの概念は本当は奥が深いのだけれど、少し単純化してブラフマンを「事実(宇宙の原理)」、アートマンを「一人ひとりの考え(個人の根本原理)」と伝える。ブラフマンアートマンが一致(梵我一如)すれば、人は真理が分かったことになるというわけだ。最終的にはブラフマンは無だったりするので、かなりやっかいだが、そこは伏せておく。
 子どもたちにとって楽譜はブラフマン(のようなもの)だ。そして彼ら・彼女らの演奏がアートマン(のようなもの)。楽譜をどのように読んでいるかが演奏を聴けば一目瞭然ならぬ“一聴瞭然”。レオナルドも言っているように、まず事実から学ぶことだ。
 ところが、演奏家となると話は俄然難しくなる。
 日本人は遵法精神(コンプライアンス)に長けていると思うのだが、法やルールが妥当であるかどうかについては無頓着と言ってもよいだろう。もう無邪気というレベルかも知れない。スポーツの世界でも、日本にとって不利になるような取り決めが平然となされるのにそれに関してはあまり文句を言わない。
 それと同じように、演奏家は大作曲家の楽譜には文句をつけずに、うまくいかないところは自分の未熟さのせいにしたりする。少なからぬ演奏家にとって楽譜は法であり、ルールなのだ。
 演奏家にとって、楽譜は作曲者の単なるアートマンなのかも知れないのだ。バッハのようにブラフマンアートマンが接近しているような卓越した作曲家の楽譜はブラフマンに近いとも言えるだろうが、そういう作曲家は一握りに過ぎない。
 フルートソナタ(2007)は、作曲当時の私の能力をぎりぎりまで使って書いた曲だ。2001年に書き始めて、書いている途中で自分自身が進歩してしまって粗(あら)が見えてくると最初からやり直し、結局完成まで足掛け7年も要した曲だ。しかし、梵我一如など夢のまた夢というような未熟者だから、表現の本当の理由など分かってないのかも知れない。
 だから、リハーサルとなると俄然緊張する。
 今日は、第3楽章コーダ直前の小カデンツァ冒頭の10連符からスタートすることにした。10連符と指定してあればad libtumであったとしても10連符に聴こえなければならないからだ。
 この曲は、どの楽章も全てミニアチュア(細密画)であって、演奏にあたっても楽譜の詳細な指示に対して検討しなくてはならない(やっかいな曲で申し訳ありません)。だから、他の作曲家の作品を演奏した時の“弾きグセ”をなるべく排していくことがリハーサルの目的となる。
 朝、おちゃめさんからメールがあって、どうしてもリハーサルに参加したいという申し出だったのでピアノの坂本景子さんにお願いすると、気持ちよくどうぞと言ってくださったので、リハーサルは4人の耳でチェックできることになった(フルートの前田有文子さんには事後承諾?)。
 さいたま市の今日の最高気温37.1度が記録された頃、予定どおり第3楽章の小カデンツァからリハ開始。そして、彫塑を制作するように削ったり付け足したりしながら表現を揃えていった。名人2人なので理解も速く、どんどん形ができあがっていった。本番はファンタスティックな演奏になることだろう。
 初演時のリハーサルも思い出していたのだが、長年に渡って私の作品を数多く演奏してくださっている中島恵さんと尾崎知子さんのペアは、私の言わんとすることを先取りしていたような気もして、楽譜から作曲家の意図を読み取る流儀がどのようにできあがっていくのかということの一部を覗き見た思いもした。
 
 9月12日が楽しみになった一日ではあった。