11月22日(月)

102215

 急ぎの仕事が重なっているのに、録画しておいたNHKのプロフェッショナルを観てしまった。絵画修復家の岩井希久子さん。同い年だ。
 全く妥協しない姿は神々しい。
 絵画修復は音楽でいえば「楽譜の校訂」になぞらえることができるだろう。バッハの校訂などは神業に等しい。だからバッハには高みに登り得なかった「校訂の屍(しかばね)」が累々と積み重なって朽ち果てている。
 今日のピカソの「ひじ掛けに座る女」(川村記念美術館蔵)の修復は、バッハ校訂のような作業だった。偶然にも、昨日カミさんと川村記念美術館行きを計画したところだ。高齢の父、モリアキ翁(91歳10ヵ月)がいる我々には自由な時間は少ない。昨日も父が所属する詩吟の流派の大会が朝から夕方まであったので、2人で出かけることができた。だからと言って、それを不自由に感じているというわけでもない。川村記念美術館に行くのは、いつかよい機会が訪れたらというだけのことだからだ。

 美術の話題をもうひとつ。
 テレビ番組の「美の巨人たち」を観た父ががデューラーの「野兎」が素晴らしいと言った。父はデューラーを知らなかったと言った。長男の “風” が「アルブレヒトさんですな」というと「なんだ知っているのか」。食卓を囲んでいた5人の中でデューラーを知らなかったのは父と娘の“たろ”。
 カミさんは「500年前の作品なのに、つい最近描かれたみたいな絵なのよ」と“たろ”に説明した。さらに「画家に詳しいのは愛好家よね。絵描きは気に入っている画家しか知らないものよ」と“たろ”を擁護。
 事実、そのとおりだ。
 “たろ”にデューラーの自画像の瞳には、彼が描いているアトリエが映っていると伝えて、画集を持ってきて見せると、“風”のほうが強く興味を示した。「ひゃあ、どうやって描いたんだ」。“たろ”は冷静に「窓が映り込んでるね」と言った。
 それからベルリーニやアングル、クリムトの話題になって、“たろ” が「全くのオリジナルなんて存在し得ない」と言った。“風” は「ラスコーの牛がオリジナルかもね」と付け加えた。しかし、ラスコーの動物たちのオリジナルを作ったのは創造主たる神だろう。
 レオナルドはもちろん、たとえ、それが抽象画であったとしても芸術家たちは神の創造物から離れることはできないのかも知れない。それを積極的に行なったのが、音楽の世界ではバッハとバルトークを筆頭とする作曲家たちだ。
 
 明日は、60歳にして新進作曲家となった生澤広次氏をお客様としてお迎えするので、ピアノのユニゾンの微調整を終わらせなければならないが、まだ半分くらい残っている。早く片づけて眠ろう。