11月27日(土)

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 娘の “たろ” が口笛でゲーム「マザー2」のBGMを歌っていた。もう16年も前のゲームだ。プラットフォームはスーファミ任天堂スーパーファミコン)。シナリオは糸井重里氏によるゲームだ。ゼルダの伝説時のオカリナ」と並ぶ、歴史に残るかも知れない傑作だと思う。
 我が家の子どもたちは名作RPGゲームに心躍らせ、あるいは心震わせて大きくなった。
 長男の “風太郎” のゲーム画面を小さな弟と妹がいつも並んで見入っていた。その弟と妹もゲームができるようになるとコントローラーを奪い合うようにして熱中した。
 「あたしの目が黒いうちはゲームはやらせない」と言っていたカミさんもゲームの実際の姿を知ってからは応援する側に回り、彼女自身も、ついに数年前、任天堂DS版のマザー2をクリアして感動の「魂の帰還」を果たしたはずだ。
 マザー2は音楽も印象的で、登場人物に合わせたり、イベントごとに変わる音楽はワーグナーの「ライトモチーフ」そのもの。映画も主人公に感情移入するが、ゲームでは主人公のキャラクターは自分自身なのだ。結局はシナリオに誘導されていくものの、その世界でどのように動こうがコントローラを持つ指先しだいである。
 話は変わるが、いわゆる純文学がマイナーなジャンルとなって久しい。それはおそらく現代音楽の姿とも重なると言って良いだろう。違いは純文学の主流が決して前衛とは限らない点だろう。純文学の作家には、純文学以外を知らない作家もかなりいるのではないだろうか。
 音楽も文学もジャンルに優位性があるのではなく、才能や洞察力、あるいは訓練にこそ優位性が生まれるのだ。訓練の中には、ありとあらゆる分野、科学・スポーツ・哲学・政治・芸術などの優れた才能に触れるということも含まれるだろう。
 なにごとも黎明期には天才が集うものだ。ルネッサンス明治維新もそうだし、産業革命やジャズもマンガもそうだった。そういうところを探っていれば、すぐれた才能に巡り合う可能性が高いはずだ。
 子どもたちに「親の言うことをきくよりもレオナルドに学んだほうがずっといいぞ」と言うのはあながち間違ってはいないことだろう。