2月19日(土)

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 休憩がてらいつもより早い更新。

 今日は午前のレッスンを終えてから新宿へ。
 カミさんはひと足先に出かけて渋谷で開かれている「小林礫斎 手のひらの中の美 〜技を極めた繊巧美術〜」展を見て、新宿に戻ってきた。南口改札で待ち合わせ。
 カタログハウス本社で行われた「小室等の聞きたい聴かせたい」というトークショーをカミさんにプレゼント。ゲストは脚本家の山田太一さん。
 実に素晴らしいトーク&ライブショーだった。

 第1部は、山田太一さんへのインタビュー。
 山田さんは1934年、東京台東区浅草の生まれ。両親は大衆食堂を経営。
 父親は、愛知の生まれで家出して浅草で食堂経営をしていたので浅草に人脈はなく、山田さんは、よく父親から「世間はお前になんか何の関心もないんだぞ」と言われていたそうだ。
 戦争で湯河原で転居。父は生活のために、今度は浪越徳次郎(なみこし・とくじろう)氏に学んで指圧師となった。その後、流行り始めたばかりのパチンコ店を開業し、温泉街であったことから大繁盛、父から「大学へ行ってもいいぞ」と高校の就職クラスにいた山田さんに言ったという。
 山田さんの父上は、商才たけた方だったのだろうと思う。就職するなどということは一切考えず、常に自ら商売することを目指していた。
 山田さんを形成したのは土地柄と家柄であったと語っておられた。それは浅草も湯河原も彼の家も「客を迎える」という視点があったということらしい。
 小室さんは荒川区尾久の生まれ。駅名も地図でも「おく」だが、土地の人は誰もが「おぐ」と発音する。北区や板橋区に住む私の叔父叔母たちも「おぐ」と言う。小室さんも「おぐ」だった。尾久は当時は東京のはずれで田舎だったと述懐、昔は大人がよく喧嘩していたと語った山田さんに共感、みずからもエピソードを語られた。

 第2部はドラマと音楽。
 山田さんは音楽へのこだわりも人一倍強いらしい。
 私は山田太一脚本のドラマが大好きで、可能な限り観ることにしている。教諭時代、あるいはその後の家庭内テレビ廃止時代には脚本を買って読んだ。
 小室さんが最初に手がけたテレビドラマは1972年の「吉井川」という作品。編曲は、先ごろ亡くなった深町純さんだったそうだ。たまたま昨日、故・深町さんが経営していたレストランでライブを行なってきたとのことだった。依頼は、深町さんの生前に受けたもの。
 小室さんが最初に手がけた山田ドラマは「高原にいらっしゃい」(1976年)。
 映像とテーマ音楽が会場に流された。アレンジと演奏はムーンライダーズだったはず。
 山田さんは、この年、NHKで「男たちの旅路」を手がけていたため、非常に忙しかったと話しておられた。ちなみに「男たちの旅路」の音楽はミッキー吉野ゴダイゴだった。
 その後、1981年の「思い出づくり」、1983年の「早春スケッチブック」で音楽を担当。それらの音楽も会場で流された。
 最後は、小室さんの生演奏。
 あの「木枯らし紋次郎」の主題歌は印象的だった。そもそも「木枯らし紋次郎」というドラマそのものが強烈だった。
 原作は笹沢佐保、監督は市川崑(全話ではない)、主演は中村敦夫。主題歌の作詞は和田夏十(わだ・なっと;市川崑夫人)、作曲は小室等、歌は上條恒彦。そしてドラマ全体の音楽は湯浅譲二湯浅譲二さんは実験工房の一員で、カリフォルニア大学サンディエゴ校で作曲の教鞭をとるかたわら、精力的に作曲活動をしていた人。
 で、小室さんのライブは3曲。歌もよかったけれど、彼のギターも良かった。楽器も相当良いものだと感じた。

 帰り際にカミさんが「ああいう老人になりたいわよね」と言った。激しく同意。本当に素晴らしい老人だ。

 帰宅すると、リビングには “たろ” の美術仲間(それぞれ美大に合格している)2人が来ていて、3人で盛り上がっていた。この人数だと夜のレッスンまで間に合いそうもないので、夕食はアウトソーシング(外部委託)。
 ナナちゃんのレッスン後、カトちゃん(苗字がむずかしくて覚えられないので、我が家ではカトリーヌのカトちゃんと呼んでいる)が、デジタル一眼レフを持っていたので写真談義。大学の授業で習っているという。木村伊兵衛土門拳前田真三、白籏史朗、アンリ・カルティエ・ブレッソンロバート・キャパなどの話題で盛り上がった。アラーキーの写真集を見たいというので、書庫から探しだしてきたりもした。荒木経惟は視点の写真家だと思う。
 実は、彼女たちが制作する動画作品の音楽を担当することになっているのだ(忙しいから過去作品を使う)。