2月18日(金)

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 数日前に、YouTubeでたまたま見つけた30年ほど前の邦人オーケストラ作品を聴いたことをきっかけとして、何曲も立て続けに20世紀中葉以降の日本人作曲家の動画を探し出しては聴いているうち止まらなくなってしまった。
 特殊奏法などを用いた実験作品は選んでいない。調性音楽だろうが無調だろうが、五線譜に書かれていると思われる作品だけを聴き込んだ。
 当時は、その差が分からなかったが、いま聴くと時代の波を乗り越えられなかった、つまり古くなってしまった曲が少なくないことに気づき、かなり驚いた。
 名前は書かないが、いわゆるビッグネームばかりだ。
 「古くさい」という感覚はどういうものなのだろうか。バッハやベートーヴェンは遥か過去の作品なのに古くさくない。しかし、それよりも新しいウェーバーあたりが古くさかったりする。それにしても20世紀の作品群の古くささと言ったら、どのように表現したらよいか分からないほどだ。私自身が、作曲された当時カッコいい!と感激して聴いていた曲も、いま聴くと古くさくてたまらなくなっていたりするのだ。もちろん、今でも聴ける曲もあった。しかし、聴けるというだけで偉大な印象はなかった。
 ここから学べることは時代の波の恐ろしさだろう。明日は我が身。その時代にしか通用しないセンスを徹底的に排除しなければ、私の作品も同じような道をたどる可能性があるわけだ。
 それらの曲は、当時は本当にカッコ良かったのだ。だから必死に検索して探し出しては聴いたのだが、まるで別の曲のように響いた。
 それらの曲を聴き終わってから聴いたフランク・マルタンの「小協奏交響曲」の第1楽章は、まったく古さを感じさせなかった。一音一音が精密に選ばれ、安っぽさを微塵も感じさせることはない。
 また新たな修業が始まる。

 ウラノメトリア・ブログに以下の4曲追加。

4α収録予定の「振り子のように(連弾)」
4β収録予定の「昔語り」
3α第96番「午後の眠り(連弾)」
2α第66番「ハナミズキの道で(連弾)」

「昔語り」は1971年、高校1年の時の作品。着想は中学生の時だったが、中学生の時には楽譜が思い通りにうまく書けなかったのだ。もう何万時間も楽譜を書いているから、どんなにヘタレの私でも楽譜を書くなどということは何でもない。しかし、すぐれた着想を得るということに慣れることは、いまだにない。
 作曲を始める時は、いつだって初心者の時のように不安でいっぱいだ。