2月21日(月)

126119

 昨日は荒木経惟さんの写真について書こうと思っていたのだが、気づいたら午前3時を過ぎていて、入浴はまだだし、入眠前のさまざまな儀式もあるし、どうしても4時前には眠りたかったので日記を諦めた。
 記事には “旬” のようなものがあって、今日はもう荒木経惟アラーキー)さんの写真について書く気はかなり失せているというわけだ。
 しかし気を取り直して少しだけ書く。
 荒木さんは公然猥褻や猥褻図画(とが)頒布などの疑いで、複数回の取り調べを受けたことがあると数々の出版物で述べている。取り調べ官から「これを猥褻だとは思わないのか?」(ちょっとウロ覚えです)と厳しく問いただされると、(この刑事もそう感じてくれているのかと思うと)とても嬉しくて・・・、というくだりを読んで彼の一部を理解したような気がした。
 そもそも刑法でもわいせつの定義は曖昧で、最終的には裁判官が猥褻だと判断したら猥褻ということになる。ならば、過去の判例は裁判官たちの性癖が記述されていることになり、これまた興味深い。
 曖昧な法律でも取り締まりには基準が必要なので、写真で言えば「写ってもよいことといけないこと」がマニュアルのように決まってくる。
 荒木経惟という写真家は、それを見事にかいくぐって作品をものにする。喩えて言うなら、食欲と味をまぜこぜにしたような状態をうまく乗り切っている。“アラーキー” にとって重要なのは“味”だけであったりする。音楽も根の部分では全く一緒だから実に分かりやすい。
 私が知る中で、もっとも “えっち” な写真集は荒木さんの「センチメンタルな旅」(1971年私家版/限定1000部)である。夫人で後にエッセイストとなる陽子さんとの新婚旅行の写真集だが、新郎は初夜もカメラを手放さない。取り締まり対象が写り込んでいなければよいだけなのだが、その法律のお陰で奇跡的とも言い得る “えっち” な写真集が誕生した。そこで描かれる陽子さんはこの上なく美しい。1990年に彼女が52歳という若さで世を去った時、彼女の美しさを知る男たちは誰もが涙したに違いない。
 
 音楽も “えっち” でなければならないと私も考えている。“ならない” (must)なのである。
 ちょっと綺麗なコード(和音)を並べて、そこにメロディーを載せれば「わあ、いい曲」と言ってもらえるような曲はできあがる。しかし、その時の音楽的快感をずっと覚えていられるだろうか。もちろん、特別に意識すれば覚えているかも知れないが、時折、なんの前ぶれもなく突然思い出して「ああああ聴きたい〜!聴かないと死んでしまうかもしれない」と禁断症状を起こすような音楽を書きたいのだ。
 ところで、これを読んでそそくさと「センチメンタルな旅」を検索して画像をチラ見してもどこが “えっち” なのか全然分からないかも知れないのであしからず。
 私が知っている中で「センチメンタルな旅」に匹敵する “えっち” な音楽はフランク・マルタンの「小協奏交響曲」の第1楽章などいくつかがあるけれど、それらを聴いて “えっち” だと思えないからと言って私を責めないでいただきたい。何事にも積み重ねたトレーニングと経験が必要なのだから。

 今日、久しぶりに音楽コラムを更新。作曲家に投げかけられ続ける永遠の質問である「どうやって作曲するのですか?」への別回答である。
 今夜の日記は、図らずも、さらに別の回答となった観があるけれど、昨日はもっと詳細に書くつもりでいた。いつか、また書く機会があるかも知れない。

 ウラノメトリア・ブログにも、下にリンクした2冊に少し手を入れたので、ぜひご覧頂きたい。


ウラノメトリア第3巻ガンマ目次

ウラノメトリア第5巻アルファ収録予定曲リスト
 
 明日は、朝一番で父の定期通院(定期的な血液検査などを含む)に付き添うので、朝の定期便はまた午後遅くなる予想。あしからず。

 睡眠不足も激しくなってきたので、ひと風呂浴びて寝ます。お休みなさい。