2月18日(月)

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 月曜日は静かに始まるというのが常であったはずなのだが、今朝はモリアキ翁の「薬がないぞ」の一言で全ての段取りが狂い始めてしまった。
 先週、処方してもらった薬の袋が投薬カレンダーにあったことは私も確認したが、それを各曜日のポケットに仕分けしないうちに、何かの拍子に手前の屑篭に落として、そのままゴミ出しというパターンではないかと推測。しかし、そんな推測は役に立たない。午前からレッスンが入っていたが、今しかないとすぐにいつもの内科クリニックに行って事情を告げて処方せんを出してもらった。結局レッスン開始は遅れてしまい、千賀子先生に迷惑をかけてしまった。このところ千賀子先生には迷惑の押し売り状態で実に申し訳ない。ごめんなさい。
 そこから先は省略するけれども、朝食の食器洗いなどの家事を終えたのが午後6時前。それから何だかんだで朝の定期便の更新は午後10時を過ぎてしまった。

 まだマンガ雑誌が少なかった頃(1960年代から70年代初頭)は、読者の年齢層の幅が狭かったこともあるが、共通の話題があったものだ(少年マンガ・少女マンガの棲み分けはあったけれど)。しかし、読者の年齢層の幅が広がるとジャンルの細分化が始まり、それぞれのジャンルにマンガ家が誕生するようになると、共通の話題は急激になくなっていった。つまり、マンガ好きの2人がたまたま出会って話をしても共通するマンガをほとんど読んでいないということがあり得るということだ。
 ここまでは以前にも書いた。
 しかし、まだまだマンガもゲームも成熟してはいない。すでに成熟の度合いを高めている文学や音楽の世界では、歴史上のビッグネームが存在している。読んだことはなくともゲーテトルストイの名前は知っているというようなことだ。
 マンガも100年後にはそのようなビッグネームを戴く “芸術” に進化しているだろうか。断言はできないが、おそらく進化していることだろう。
 クラシック音楽は20世紀中葉に一度、その流れを途絶えさせてしまった。その隙にポップカルチャーに主役の座を明け渡し、外からはなかなか伺い知ることのできない「閉じた世界」となった。最大の原因は「聴衆をないがしろにした」ことだろう。聴衆に迎合しなかったという意味ではさらさらない。迎合しなければならないのは力のない作曲家だけだ。
 アイドル系の短命型ソングは別として、ポップミュージックの世界でも力のあるミュージシャンは聴く力のある聴衆を育ててきた。ヒットチャートに登場する歌手よりも、ヒットチャートなどに全く依存しない歌手のほうが実はずっと人気があったりするのは、彼らが聴衆を育ててきたからにほかならない。
 ベートーヴェンにヒットチャートが必要ないことを見れば明らかだが、ベートーヴェンを聴く人たちはその作品によって大きく成長する。すると、さらに高度な音楽へと高みを目指すようになる(これはベートーヴェン自身の言葉でもある)。
 伝統とはそのような力を指すのだと思う。たとえほんの少しであったとしても伝統の一翼を担いたいものだ。

 余談だが、鬼頭莫宏(きとう・もひろ)の「なにかなにかもちがってますか」は、まだ単行本の第1巻しか出ていないマンガだが、すでに面白い。タイトルが内容をそのまま表していて秀逸。間違っているとも。