3月3日(木)

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 あい変わらず、こども2αの追加曲の作曲も改訂もうまくいかないが、2αと共通するページの楽譜の拡大と解説の短縮化は今日、全曲の作業を終えた。

 質問サイトを使ったカンニング事件の報道が盛んに行われているが、メディア各社は事件や事態の重要度をどのように考えているのだろうか、と疑問に思うほどの加熱ぶりだ。
 たったいま、健康保険がないために失わなくともよい命を失う人がいるかも知れない。経済の厳しい冷え込みで、明日への希望を失ってしまった人がいるかも知れない。他にもいまの日本には問題が山積みだ。
 病気も失業も、恐怖であることは間違いないだろう。健康保険も失業も、制度が関わる以上、メディアはそれを変えていく力があるのだから、それを行使するようなジャーナリストがもっとたくさん現れてよいはずだ。

 今夜(録画を見たための勘違い。3月1日の誤りでした)のNHKクローズアップ現代」では現代仏教の問題を取り上げていた。仏教寺院の数はコンビニの2倍。そんなにあったのかという印象だ。世論調査では、人々の仏教に関する印象は90パーセントが良いと答えているが、寺になると25パーセント、僧侶に関して好感を持つ人は10パーセントということだった。
 つまり、僧侶は仏教をやっているのかという気持ちが人々にあるのではないかと、東京工業大学の先生が話しておられた。
 しかし、昨今のような、人々にとって厳しい時代こそ仏教の出番と、人々のために立ち上がった僧侶たちの紹介もあった。自殺防止に取り組んでいる女性僧侶の方が、以前は僧侶であることを恥ずかしく思っていたりしたけれど、今は僧侶であることを誇りに思っていますとコメントしていた。
 その通りだ。葬式の時にしか会うことがなければ僧侶は縁起が悪い印象しかなくなる。本来なら、人々が死を迎えるずっと前に人々に生きる希望と死への覚悟をもたらしてくれるのが僧侶であってほしい。
 修業というのは、早起きして仏教的ルーティンワークをこなして一日を終えることではなく、人生について深く考え、人々を導けるだけの人格を獲得することだろう。仏教の経文には人生の奥義も記されてあることだろう(そう期待したい)。
 私も以前は、作曲家であると名乗ることが嫌な時期があった。なんと言っても作曲家という職業ほど胡散(うさん)臭いものはないと思っていたからだ。自称作曲家とか悪さをする怪しい作曲家がいたり、まるで人々の役に立っていないような感じがしたからだろう。ところが今は違う。それどころか、まさに経文を書いているような気分で作曲に取り組んでいる(勝手に思い込んでいるだけだけれど)。
 哲学書や経文は、学ぶためだけにあるのではなく、そこに記された真実に気づいた人が自らを輝かせることも大切な役割だと思う。
 だとしたら、楽譜を書くのもそれに似ているのではないか。作曲する時の3つの条件は「作曲者の魅力」「楽器、または歌の魅力」「演奏者の魅力」を表現できることだ。たとえば、ベートーヴェンの月光ソナタは「ベートーヴェンの魅力」「ピアノの魅力」そして「演奏者の魅力」を余すところなく表現できる。そういう演奏を聴いて感動できる人は、間違いなく輝いている。だから、作曲家は演奏者も聴衆も輝かせることができることになる。
 ジャーナリストも僧侶も音楽家も修業次第。それぞれがそれぞれの真実に到達したいものだ。