3月12日(土)

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 まず最初に告知。明日の「第25回 わらび春のコンサート」は中止という連絡が入りました。「パヴァーヌとコレンテ(2011)」の初演は別の機会に持ち越されます。
 とても残念。

 そして、大震災をも霞ませてしまう原発事故の全貌が見えてきた。
 福島第一原子力発電所1号炉の炉心溶融が、枝野官房長官の記者会見で明らかになった。午後3時過ぎには水素爆発が起こって、1号炉の建屋が吹き飛んでしまった。海外のメディアは「日本の原発が爆発」と伝えた。
 午後7時からのUstreamにおける、元・原発格納容器設計者の後藤政志さんと同じく圧力容器設計者の田中三彦さんの話が非常に参考になった。
 それとは前後するが、カミさんに、原子力事故の考え得る最悪の状態を訊かれて「炉心溶融」と答えた。彼女がそれを理解してからNHKのニュースや枝野官房長官の記者会見を聞いて報道される内容の矛盾(隠蔽体質)を感じたようだった。

 「たろちゃんの合格発表は明日だけど、そんなことどうでもよくなってきたわ。生きているだけで十分よ」

 全く同感だ。人間が使える電力には限度がある。それは、再生可能なエネルギーの範囲内にあることは明らかで、そうでなければ子々孫々に対して説明がつかない。つまり、我々に許された電力を分けあうというのは、日本の国土という限られた土地を分けあって使うのと同じことだ。
 グリッド・パリティという概念を知ると、原発依存が妙な論理であることにも気づくだろう。グリッド・パリティというのは再生可能な太陽光発電風力発電地熱発電、波力発電などの発電コストと既存の系統電力の価格と等価になることを言う。たとえば太陽光発電のコストは年々下がり続けており、2014年にはグリッド・パリティに到達するという予想もある。太陽光発電だけでは不安定なので、他の発電方法も取り入れなければならないが、化石燃料原子力発電以外の発電方法がグリッド・パリティに到達するのが仮に10年後だとして、今から10年後に稼働を始める原子力発電所を建設する意味はあるだろうか。原子力発電のコストには廃炉にかかるコストが正しく上乗せされているとは思えない。原発は建設よりも「安全な廃炉」のほうが遥かに高くつくのではないだろうか。リスクにかかるコストも含めればということだ。

 福島原発1号炉は、格納容器と圧力容器の両方に海水を注入して炉心溶融を止めるということだが、それでうまくいくのかどうかは分からないという。後は成功を祈るのみだ。

 昨日(11日)は都内の鉄道網がストップしたため、平和島に勤務している長男の“風”の安否が不安だった。メールを出しても返信がない。ようやく返信が来たと思えば発信から数時間後だったりする。徒歩で帰宅中、という内容だったが、平和島から蕨市まではフルマラソン以上の距離だろう。
 果たして、午前4時に帰宅。途中のコンビニに食料品は残っていなかったということだった。彼は運良く、早い時点でマックに立ちよって食事をとることができたそうだが、それ以後は帰路にあったマックは営業していなかったようだ。
 それは、今日の午前中にカミさんと近所のショッピングセンターに行って実感した。臨時休業していたのだ。営業しているスーパーに行っても、店内では「商品の搬入が遅れていて品切れになっているものがあります」というアナウンスが繰り返されていた。いつもは品物があふれるように陳列されていて当たり前のスーパーマーケットも、実は脆弱な流通の上に成り立っているのだろう。
 水と主食、そして食器を汚さないための(災害時には水洗いができない)ラップフィルムの備蓄が欠かせないと実感した一コマだった。
 いつも利用しているガソリンスタンドのメールマガジンにも「タンクローリーが来ないので、現在給油できません」とあった。その後、営業を再開したけれども、災害時には断水、停電、ガス遮断の中で数日間、あるいはさらに長い期間を過ごさなければならない可能性がある。
 備蓄は、その家族の災害時の体力と言えるだろう。