4月15日(金)

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 ラジオを聞いていてもテレビを見ていても、原発事故に対する慣れのようなものを感じるようになってきた。これは違和感がある。うまく表現できないが、昇進して少しの期間で部下よりエライと思い込んでしまうダメ上司のようだ。
 私は何事にも、なかなか慣れない超保守的なタイプなので、生活の基準は原発事故前にある。だから水道水は以前とは別物であるし、空の色も違って見えるような気がしている。
 
 そういえば、クラシック系の作曲家の多くが生前、有名にならないのは生涯にわたって緊張感を持たせるためなのかも知れない。もし売れてしまって経済的に楽にでもなろうものなら、私などは作曲しなくなってしまうことだろう。いつでも、作曲するだけで寿命が縮む気がしている。
 褒められるのも貶(けな)されるのも、どちらも勘違いである可能性が高い。なにしろ、ひとりの作曲家を理解するのにも人生の大半を費やしたりしなければならないのだ。いや、ひとりの作曲家をまるごと理解するには、その作曲家と同じ能力であったとしても、その作曲家の生涯と同じ年月をかけなければ無理だから、その作曲家の一曲を理解できるかどうかというのが本当のところだろう。
 作曲に限らず、我々創作する者は同じことを繰り返していてはならない。ネジの回転なら、同じように見えてもどんどん深く潜っていくからOKだが、同じレベルのものを大量生産するのは意味がない。
 ウラノメトリア2ベータを64ページ化するにあたって、いくつかの新曲を書かなければならない。しかし、今の能力で書ける曲などには興味がない。もっと高みに登らないと書けない曲を目指すべきだ。
 ベートーヴェンは「書き尽くす」ことによって、それを成し遂げた。ストラヴィンスキーピカソは変身することによって、ドビュッシーは深化することによって、ラヴェルは高度化することによって、それを成し遂げた。
 私はベートーヴェンタイプが望み。1曲ずつ書き尽くしていくという生き方をしたい。


ポスタープロジェクト「復興の狼煙」