8月27日(土)

190030

 レッスンに通ってくれている中学生たちには、明治時代の文豪の小説(古い小説ほどルビが完備している)を音読させて、音になおすだけではなく、意味がどのくらい捉えられているかというトレーニングをしている。ピアノを弾くのは単なる音読に近いが、意味を把握しながら読むのは朗読だ。 
 今日はヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」にしようと思ったが、さすがに難しいので、それを解説した「複製技術時代の芸術精読」をチョイスしてみた。評論を読み解くことは小説よりも難しいことが多い。なぜなら論理の組み立てを見抜かない限り、何も答えられないからだ。小説なら何かしら言える。

 今は美術品が美術館にあること自体が当然のように思われているが、美術館が作られた当時はそうではなかった。美術品は本来あるべき場所においてのみ価値があると考えられていたからだ。喩えるならば、動物は自然界にいるべきで、動物園の動物からは本当の生態や動物たち本来の姿を見ることはできない、というようなことだろう。
 昔は録音を嫌った指揮者や演奏家も少なくなかったのもそのような理由からかも知れない。
 写真術が発明されると芸術のあり方そのものが変化する。ダゲレオタイプは1点もので、2枚必要な時には2回撮影しなければならなかったから、これは除くことにするが、ほぼ同時期にタルボットによって考案されたカロタイプはネガとポジがあったから、複製可能だった。
 もし、モナリザがオリジナルしかなければ、広く人々に知られることはなかっただろう。しかも、複製されたモナリザは多くの場合、サイズが小さくなっている。その小さなモナリザは果たしてモナリザだろうか、と問いかけたのがベンヤミンだった。
 数日前に、私はiPodでパイプオルガンを聴きながら歩いて、何回もクルマにぶつかりそうになった。私のいる場所がジルバーマンのオルガンがある大聖堂になってしまうのだ。ギラギラと太陽に焼かれて焼き鳥屋の看板を横目に荘厳な音楽を聴いていて、それは本当に聴いていることになるのかということだ。なる。今はなると思う。
 しかし、本当は違うのかも知れない。写真印刷と録音は何もかも変えてしまった。変わる前を知らない現代人にはベンヤミンの言っていることを理解するのも大変だ。特に彼の言う「アウラ」を実感するのは難しい(実はヒシヒシと感じているのだが)。
 フェラーリのスポーツカーは芸術品だと評される。しかし、どれを買ってもオリジナルではない(プロトタイプと市販車が完全に一致することはないだろう)。しかし、それでもフェラーリは芸術品だ。以前、東京都現代美術館フェラーリマセラティ展を見たときには、展示されたエンジン単体の美しさを見て感動したものだ。だから、フェラーリは芸術品だと言って間違いではないと思う。
 すでに芸術という概念そのものが変質してしまったのだろう。プロの演奏家にとって楽器は一点ものだと思うが、一般の音楽愛好家にとってはピアノはピアノに違いない(ブランド名で区別する程度か?)。
 ダリなどが、写真でなければ決して目にすることのできない画像を生み出してから、あるいは映画が登場してからは、もはや複製は問題とされなくなった。
 音楽の世界では、生演奏とオーディオ再生による音楽にこだわる人とこだわらない人が厳然と存在する。しかし、滅多に演奏されない曲となると、録音に頼らざるを得ない。それより、録音された音楽を聴き込むと、同じ演奏家による生演奏を聴いても録音を記憶してしまっているために違和感を感じたりする現象が起こる。
 ベンヤミンの古い問いかけが常に新しい問題を提起しつづけている。

 今週観た映画は3本。1本はリアルなダークファンタジーで、よくできていたけれども平均点。
 今週の一押しは「ハート・ロッカー」。ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」を押しのけてアカデミー賞の作品賞を含む6部門を獲得。おまけに監督のキャスリン・ビグローはキャメロン監督の元妻。すごい夫婦もあったものだ。
 それから、押井守監督の「スカイ・クロラ」を遅ればせながら鑑賞。ピクサーにもドリームワークスにも作れない押井ワールドがここにもあった。ハート・ロッカーと同じ週に観るのではなかった。アヴァロンと同じポーランド色の強い画面。細かいところまで綿密に作り込まれた動画にはいつも脱帽されられる。