9月28日(水)

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 「ロマンシング・ストーン」だったか「ナイルの宝石」だったか忘れてしまったが、主人公の女性小説家が自分の創りだしたストーリーに感激してボロボロと泣きながら、タイプライターを打つシーンがあった。
 私の場合、さすがにボロ泣きするということはないけれど「なんていい曲なんだ」と自画自賛することはしばしばだ。それは一種のカタルシスで、時々こんなことがないと作曲のようなしんどい作業は続けられない。ところが、作曲者本人がこのくらい感動して、ようやく他人は「まあ、ちょっといいかな」と思う程度のものだったりする。バッハやベートーヴェンがどのくらい偉大であるのかは、作曲してみればすぐに分かる。
 今日も「広場の踊り(仮題)」を書きながら、すっかり良い気持ちになってしまった。「この曲で全世界をノックアウトしてやる」と鼻息もすっかり荒くなった。
 そんな時に、偶然、下のリンクのページを見つけた。

 >くるるのイベント>夜の幸いならんために
 
 ジャズミュージシャンの坂田明さんが蕨市民であった頃、やはり市の主催で彼のコンサートが開かれたことがあった。彼は、とても謙虚な人で、町会の会報(たぶん)に文章を寄せる時にも「読者が自分でお金を出して買ってくれる雑誌は、嫌なら買わずに済むのだからなんとも思わないけれど、そうでないところに自分のような者が文章を載せて頂くというのは気が引けてしまいます」(曖昧な記憶で再現)というようなことを書かれていた。
 私の作品ばかりがステージに乗るというコンサートが市の事業(文化ホールくるるの事業だけれど、ほぼ同じと考えてよいと思う)として行われることに、気が引ける部分は確かにある。
 自主公演ならば堂々とやればよい。ヘボなら赤字になるだけだ(今回も赤字は充分あり得る)。しかし、公共的な性格を帯びてくると、何がなんでも役に立たなければならない気がしてくる。
 選曲に晦渋なものなどなく、どれも自信作(所詮、作曲者の)ばかりなのだけれど、最初に書いたように私がどんなに感動しても、客席がそうとは限らない。演奏してくださる方々は、私のような無名作曲家にはもったいないほどの一流の方々ばかりだから、演奏の素晴らしさに感動していただければそれで良いのだけれど、彼らがベートーヴェンショパンを演奏したほうが客席から喜ばれるとしたら心穏やかではいられないではないか。
 もうずっと昔、私の曲がプログラムでショパンドビュッシーに挟まれることを知った時、なんと怖ろしかったことか。作曲の師である土肥先生が「作曲するということは音楽史と並ぶことだ」と、言っておられたのを、その時、即座に身をもって理解した。おそらく土肥先生も同じ体験をしたからこその言葉に違いない。
 今回は前後に大作曲家の作品はないのに、同じようなドキドキ感がある。それは、今日、くるるのホームページを見てしまったからだ。
 実は、チケットの割り当て分は、もう捌けてしまった。それどころか新たに10枚融通していただいたチケットも、今日注文に応じて6枚郵送してしまったので残りは少ない。小さなホールだから客席は埋まることだろう。
 今となっては、もう手遅れだけれど、作曲するにあたって本当に全力を尽くすことができただろうか、などと思い返してみたりする。全力を尽くせたのならば、何も恥じることはない。しかし、全力とはどういうことだろうか。完成した瞬間、死ぬ寸前までエネルギーを使うことだろうか。

 ところで、昨日書いたウラノメトリア2β用の曲のタイトルを「夢見がちな天使」としてみた。「夢のなかで」は使えない。第5巻に「夢のあとで」があることを思い出したからだ。