11月25日(金)フルート・アンサンブル・フラッシュ第18回演奏会

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 今日は高綱良子先生のレッスン。
 もし、この日記をお読みのかたがピアノのレッスンを受けようと思い立ったら、レッスンをする側になってからも、まだ学び続ける意欲のある先生に師事したほうが良いのは言うまでもない。
 そういう先生たちは学ぶことの大変さと楽しさを忘れていないからだ。
 今日の午後、娘の “たろ” と小一時間話し込んだ。結論を簡単にまとめると「どうしたら絵が上手に描けるか、なんていう質問は描いて描いて描きまくってからじゃなくちゃ答えを聞いても分からないよ」みたいな話になった。学ぶということは、そういうことだと思う。
 ゲームひとつクリアするにしても、やってやってやりまくって(つまり膨大なエネルギーを投入して)成し遂げるものだと思う。ところが、好きで好きでたまらないというような場合には、そのエネルギーの投入自体が楽しいからやれてしまう。作曲もピアノも同じ。「好き」の力を借りて膨大なエネルギーを投入して成し遂げる。
 作曲工房で学ぶ人たちは、みなそうだと思う。今日の “りょうこ先生” のレッスンもそうだった。学ぶことは変わること。自分が変わることほどワクワクすることがあるだろうか。

 夜はカミさんの勤務先の最寄り駅で待ち合わせて、原宿教会で開かれるアンサンブル・フラッシュのコンサートに。
 


 原宿教会はとても素敵な建物。アンサンブル・フラッシュには良い意味での “こだわり” がある。会場選びもそのひとつ。
 


 原宿教会の天井はグランドピアノの形をしていたりして、開演を待つ間も楽しい。
 プログラム(お品書きのほう)も毎年素晴らしい。プログラムに載せられた文章を全部書き写したいくらい。
 とりあえず曲目。

Opening 「アヴェ・ヴェルム・コルプス」 モーツァルト
1.4本のフルートのための組曲《フルーツ・パフェ》 伊藤康英
2.アルルの女 第2組曲 G. ビゼー
  休憩
3.リゴレット・ファンタジー作品38 ドップラー兄弟
4.ソルト・オブ・ジ・アース(地の塩) C. マクマイケル

 選曲の見事さは毎回のことだけれど、今年も素晴らしかった。
 伊藤康英さんのフルーツ・パフェには2つの意味があって、もうひとつはフルート(複数形)、そしてフランス語のパフェは「完璧」ということで「パーフェクトなフルートアンサンブル」。
 意味のないデタラメ音楽の時代が遠くに去ったことを感じさせる美しい曲だった。デタラメの嵐の時代を過ごした作曲家も演奏家も実に不幸だったと思う。前衛音楽とデタラメ音楽は全く違う。ベートーヴェンベルリオーズも前衛作曲家だった。彼らの音楽には意味と内容があった。だから、彼らが新しい時代を作った。
 ジョン・ケージはデタラメではなかった。ジョン・ケージだけではない。意味ある音楽を書いた20世紀の作曲家は決して少なくなかった。しかし、形だけを真似て中身のない作品と演奏が氾濫して「デタラメ音楽世界」が形成されてしまった。そこでは本物も偽物も全て一緒くたにされて、一般の音楽愛好家から毛嫌いされた。

 「アルルの女 第2組曲」を聴いてカミさんと「ビゼーは凄い」と確認しあってしまった。私が作曲を学んだ師である土肥先生は「メロディーはモーツァルトビゼーチャイコフスキー」と言っていた。本当にそのとおりだと思っているのだけれど、ダメ押しのように再確認させられた印象。このメロディーの揺るぎなさはどうだろう。

 休憩をはさんでリゴレット・ファンタジー。これは2本のフルートと4本のアンサンブルによるドッペル・コンチェルトの形で演奏される。ヴェルディのメロディーはビゼーに比べると弱いのだが、フルートの特性を活かすという意味では、こちらが一枚上。

 今日の白眉はマクマイケルという初耳の作曲家による、聖書の一節からタイトルがとられた「地の塩」というセクステット。「静けさ」「凶暴性」「繁栄」「不正行為」「大胆不敵」という5つの楽章からなる。この曲は、フルート・アンサンブルの定番に育つかも知れない。音楽界の不毛の時代は終わったと言ってよいだろう。作曲コンクールでも、いずれはこういう作曲家が審査員を務める時代が来て、聴衆を恫喝するだけの曲は見向きもされなくなることだろう。


 良い演奏会というのは、実は多くない。人が殺到しないからこそ小さな会場でコンサートが開けるという側面もあるのだけれど、こういうコンサートに人が殺到しないというのは明らかに間違っている。
 来年は、ほかの人には内緒で、作曲工房日記を読んでいる人だけでこっそりと “殺到” しようではないか。