北京オリンピック開会式の報道

 昨日は「オリンピックの報道よりも南オセチア報道を」とも取れるような書き方をしてしまったのだが、決して両者の報道比重を比較する意味ではなかったので、一言申し添えておく。
 北京オリンピックの開会式に関する報道記事をひと通り読んだが、他の分野における評論・批評とよく似ていて、記事の筆者の能力がそのまま現れている点が興味深かった。
 モーツァルトがなぜ天才であるのかを伝えるのは極めて困難である。モーツァルト・イヤーにおける特集番組のほとんど全てが核心に触れることができなかったと言っても過言ではないだろう。
 演出の張芸謀チャン・イーモウ、正しくは張藝謀)氏は才能あふれる映画監督。私が鑑賞した作品は「初恋が来た道」、「ヒーロー」、「Lovers」の3本だけで、「単騎、千里を走る」は観ようと思っていて機会を逸している。だから、イーモウ監督について何か知っているかと問われれば、それぞれの映画が、まるで異なる才能によって作られたかと思わせる発想の豊かさに驚いたということだけである。
 今回の開会式では、全体の長さが参加する選手たちへの体力的な負担を考えると長すぎた(おそらく入場行進に見直しの余地があったことだろう)きらいがあるが、監督の意図は見事に伝わったことと思う。
 「チャン・イーモウ監督が100点満点と自賛した」という見出し・内容の記事があったが、それはイーモウ監督が出演者たちへの称賛を込めて語った言葉ではないだろうか。もちろん彼の自負も入っている。クリエイターである以上、当然である。同じ記事には「全体としては中国文化礼賛の色彩が濃かった」と少々批判的ともとれる文言もあった。開会式はメッセージなのだから、いくら自国文化を礼賛してもよい。むしろ、世界史におけるアジアの役割を世界に再認識させるという点で成功だった。
 たとえば、いまだに「コロンブスによるアメリカ大陸発見」という言葉を見かけることがある。コロンブス無人の大陸に人類で初めて上陸したのならまだしも、実際にはそうではなかったのだから、その言葉をそのまま受け取ると「アメリカ先住民は人間ではなかった」ことになる。だから正確には西洋人はアメリカ先住民に何万年も遅れをとって、ようやく到達したに過ぎない。
 活版印刷も、教科書ではグーテンベルクを開祖として習うが、それはグーテンベルクしか知らないヨーロッパ人の書いた歴史書を鵜呑みにした結果であって、すでに11世紀に北宋で活字を並べた組版による活版印刷が行われていたことが知られている。教科書に限らず、書物に書かれていることが「著者の限界」であることは言うまでもない。この日記も、私の限界をさらしているということと同様である。だからこそ、レオナルドが看破したように我々は「事実」から学ばなければならない。
 何を表現するか、どのように表現するかという問題は、すべてインスピレーションに委ねられる。インスピレーションとは才能と同義であり、いくら金を積んでも得られるものではない。生まれつきの才能という考え方も信用できない。才能の開花にはトレーニングが必須だからである。
 イーモウ監督は、その優れた発想でヨーロッパのことにしか関心のないヨーロッパ人にアジアの力を知らしめ、また中国政府は、世界に台頭しようとする中国の意思と力を見せつけることに成功したと言えるだろう。
 今回の開会式をもっとも衝撃をもって受け止めているのは次回、ロンドン大会を開かなければならないイギリスのオリンピック委員会だろう。過去の欧米各国におけるオリンピック開会式が単なる学芸会であったことに気づかされてしまったからである。