10月5日日曜日

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 昨夜、というか今日未明は「用字便覧」にある、数万語を読みふけった。用字便覧だから意味など記してはない。果てしない言葉の羅列。言葉はイメージであり、それを音にするたびに頭にイメージが浮かぶ。そのほとんどが知っている言葉ばかりだ。何時間も続けていると、頭の中の索引が一挙に整理された気分になる。ハードディスクの最適化にも似ているだろうか。
 この数週間で古今東西の数千枚に及ぶ絵画の図版を眺めた。真剣に1枚1枚を見たわけではないが、数百人、あるいはもっと多くの芸術家たちの閃きを目にしたことになる。閃きだけではない。こだわりとか決して妥協することのできない境地に接したはずだ。こちらでも脳の“最適化”が行なわれた。
 なぜ今まで、この“インスピレーション・マラソン”とも言うべき、この方法に気づかなかったのだろうか。絵画表現は音楽と違って時間の経過によって意味を成すわけではなく、もし、時間が関与するとしたら、それは鑑賞者側の問題である。
 イメージの奔流を受け入れる私に起こった最大の変化は、日本の美と、それ以外の美の違いが分かりかけてきたことだ。日本の洋画界に「世界基準」と「日本基準」のダブルスタンダードがある理由もよくわかった。しばしば、日本の洋画家は「世界で通用しない」と批判されることがある。つまり「海外の絵画市場では値がつかないからダメだ」という批判である。確かに、本当に理解されることによって価値のなさが明らかになってしまう“重鎮”画家もいることだろう。しかし、海外の批評眼をどれだけ信じてよいのだろうか。世界標準のグローバルな音楽界でも、棒弾きピアニストが高い評価を受けていたりする現状を見ると、他人の批評を鵜呑みにするのはあまりに危険である。
 自分自身の批評眼を自ら信じられるくらい磨くことが何より最優先課題である。
 これは、自作品にタイトルをつけるだけのイマジネーションを得ようと思って始めたことだが、思わぬ方向に進み始めたということだ。ヒョウタンから駒が出る、というようなことだろうか。
 
 午後は大学生のさゆりさんのレッスン。気がつけば何でも理解が早い彼女には、いろいろなヒントを出せばそれで済んでしまう部分がある。握りバサミひとつをとっても、そこには職人達による限りない改良と工夫、そして美しさへの追及があった。柘植の櫛、筆、塗り箸、茶碗、草履、なんでもよい。それらは、人の執念によって磨かれてきた。音楽も同様であることに気づけばよい。演奏すべき曲とそうではない曲との区別も、全てが歴然としているというわけではないが、明らかなものも少なくない。我々が磨くべきセンスは本物を見抜く力にほかならない。