小室哲哉関連楽曲の放送自粛

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 小室哲哉関連楽曲の放送を自粛する動きが放送界にある。2つの点において問題を整理する。
 第1は、著作権者が誰にあるかという問題である。既に小室哲哉氏が著作権を手放しているのなら、放送自粛は著作権者に及ぶのであって、小室氏には直接及ばない(実際には、一部の著作権料を受け取る契約になっているようだが)。現在ビートルズの全ての著作権マイケル・ジャクソン氏にある。ビートルズのメンバーとマイケル氏のどちらが問題を起こすと放送が自粛されるのだろうか。社会は何を懲らしめたいと言わんとしているのか。
 第2は、作曲者と作品は関係がないということだ。どのくらい関係ないかというと、作品に接しただけで「犯罪者のものかどうか分かる」とは思えないからである。
 罰せられるのは犯罪者本人であり、それは法治国家である限り、刑法に則ったものでなければならない。そうでなければ、それは明らかな私刑であり、私刑を行なった者こそが裁かれなければ法は法でなくなるだろう。
 1曲の歌が世に流れるだけでも膨大な人々が関わっている。誰か一人のために連帯責任を取らされて経済的被害を被る善良な人々(CDをプレスしたり、トラックで配送したりする)には配慮しないということなのだろうか。
 「小室作品が流されることに違和感を覚える人もいるから」という理由を挙げた放送局があった。ならば、およそありとあらゆる人が放送には登場できなくなるだろう。真っ先に歴代総理大臣だったりしないか。「違和感を覚える人」こそが勘違いしているのであって、音楽は作曲者のためにあるのではなくて、聴く人のためにある。放送局には、それを人々に知らしめる責任こそあれ、迎合する必要はない。
 なぜ、放送局が人々より先に判断する権利があるのだろうか。聴く聴かない、見る見ないという判断は視聴者のものである。