11月11日(火)音楽を聴くということ

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 音大を出たからといって音楽に詳しいわけではない。音大卒業生には、しばしばレッスンで扱われた曲以外はほとんど知らないという人がいる。しかし、たくさんの曲を知っていればいいわけでもない。オタク的クラシックファンは実にたくさんの曲を知っているが、やはり音楽に詳しいとは限らない。
 要は、音楽の何を聴いているかなのだ。
 「この曲には無駄な音がない」というのはしばしば褒め言葉として使われるが、ではそのような発言をする人に無駄な音のある曲から「無駄な音」というものを指摘して教えてもらいたいものだ(実は、そのような音は存在する)。
 実は私自身、曲を1回や2回聴いたくらいではサッパリ分からないことが多い。相当しぶとくその曲と付き合わないと曲の全体像も細部も見えてこない。ベートーヴェンモーツァルトソナタ交響曲ならば、部分動機くらいまで分解して聴こえてくると、その曲を作曲した時の作曲者のアイディアの流れも見えてきたりするが、後期ロマン派の大規模な楽曲になると茫洋としてきて、真似たり再構成したりできる気がしない。
 それを過ぎて現代に近づくと分かりやすい曲が増えてくる。ショスタコーヴィチプロコフィエフは旧ソヴィエトから社会主義的な明解さを求められたことがあるにしても、かなり新古典主義的な構成感を持っている。ストラヴィンスキーは楽式論的な意味ではなく、実は明解な音楽が多い。しかし、その印象も聴いた回数が桁外れに多いからなのかも知れない。
 音楽を聴く時には“真の意味において”聴き込みたいと思う。