11月14日(金)

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 今日は、故・土肥泰(どい・ゆたか)先生の没後10年忌。
先生が「墓前参りよりも思い出してもらうことのほうが価値がある」というようなことをポロっと仰ったことが今は身体で分かる。アメリカ先住民の言葉に「人は2度死ぬ。一度目は肉体の死、2度目は、その人を覚えている人が誰もいなくなったとき」というものがあるが、本当にそのとおりだ。ベートーヴェンショパンには2度目の死がなかなか訪れないことだろう。
 しかし、名前が残ることに意味があるとは思えない。人が歴史に残ると「何々の改革を行なった人」というような形で単純化されて伝えられたりする。日本中の子どもたちがテストの解答欄に記入できたとしても、それがなんだというのだろうか。たとえば、ラスコー洞窟の壁画は誰が描いたものか分からない。しかし、描いた人の気持ちがダイレクトに伝わってくる。名前が残るよりもはるかに凄いことだ。江戸時代の指し物師が全身全霊を込めて作り上げた違い棚を見て感動した時、私たちに彼が“大切だと思っていたこと”が流れ込んではこないだろうか。残って欲しいのはクオリアであるとか、志や覚悟をダイレクトに伝えてくるものだ。
 私がいくら曲を書いていっても土肥先生は「音楽には聴こえる」とだけいって、高みを目指すように仕向けてくださったことは、いくら感謝してもしきれない。
 名前は残らなくてもよい。200年後に、誰かが、ふと私のメロディーの一節(ひとふし)を口ずさんでくれるだけでいい。
 私の曲が後世に残るとしたら、それは私が未来の人々にも通じる真の音楽美学を獲得したときだろう。そもそも芸術など、そのほとんど全てがゴミくらいに考えていなければならない。自分が有益なことをやっているなどと思ったらおしまいだ。ゴミ製造機からの脱出。それが何よりの目標。