11月15日(土)

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 昨深夜、ダイニングテーブルに娘の“たろ”がカミさん宛てに書いた置き手紙が置いてあった。我が家では、それぞれの生活時間が異なるために、一緒に住んでいても会えないことがあるのだ。
 「お母さま、おはよう」で始まるそれは、まるで「ミッションインポシブル」の元となったテレビドラマでの受命シーン「おはようフェルプス君。さて、今回の君の使命だが・・」とよく似た印象の指示書だった。内容は、今日土曜日の「アンドリュー・ワイエス展」にどのように合流するか(以前・以後は別行動のようだ)なのだが、フォント・カラー・レイアウト・デザインがすでにひとつの作品として完成しており(わが家でのみ通用する楽屋オチではあるものの)鑑賞に耐え得るものだった。
 今朝、カミさんに「あの置き手紙はどこか」と訊ねると「読んだから、もう捨てちゃったわよ」という答えが返ってきた。「どこに?」「あなた、今朝、ゴミだししてきたでしょ?」「ぎゃぼーん」
 世間一般では展覧会に行くということは「一種のカルチャー的レジャー」と捉えられているかも知れない。しかし、我が家では何かをリサイクルショップに売ってまでも(古い言い方をすれば「カミさんを質入れ」しても)行かなければならないものなのだ。決して大げさな話ではない。実際、前回“たろ”は「ケータイ料金は2ヶ月滞納しければ止められるだけで契約解除にはならないよね」といってケータイ料金を持って美術展に出かけてケータイがしばらく使えなかった。
 ピアノのレッスンで、何人かの子どもたちに「小林愛美(こばやし・あいみ)」さんがピアノを演奏している動画(YouTubeで「aimi kobayashi」で検索)を見てもらった。4歳、5歳の頃の演奏。手も小さく、指も力がないので、彼女は見事な重力奏法を獲得している。手首も肘も上半身も、体重や加速度によって生じる力を鍵盤に乗せる打鍵のために連携して動いている。
 それを見た子どもたちには2つの反応があった。誰もが愛美ちゃんが素晴らしい演奏をしていることはすぐに分かったものの、重力奏法の意味を理解した子どもと、自分自身の演奏はほとんど変わらなかった子どもである。
 愛美ちゃんの本当に凄いところは音楽の流れである。基本テンポ>拍子>リズム>フレーズ周期>テンポルバートという階層構造が決して崩れない。有名なピアニストでさえ、コルトーのようにまるで音楽が理解できていないのではないかと思われるような人から、内田光子さんのように厳密な人までさまざまだが、小さな愛美ちゃんは、プロピアニストたちの演奏と聴き比べても音楽理解において上位に位置するのではないか。
 モーツァルトは、演奏旅行で出会った偉大な音楽家たちの作品と演奏を聴いて、たちまちその作曲技法と音楽様式を吸収してしたと言われている。実際、モーツァルトが特定の誰かに師事したり音楽学校で学んだような記述はなく、子ども時代に父親の音楽能力を凌駕していたことは確かなので、父親からの影響も幼時だけだったことだろう。
 ピアノも絵も、練習だけではうまくなれない要素がある。一流に触れて、その一流のエッセンスを感じ取る力も育てなければならない。