11月22日(土)ショパン「ピアノソナタ第1番ハ短調」

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 昨日は、レッスンが一日続いたこととアイディアがあったことが重なって、日記を書く余裕がなかった。書こうと思ったアイディアもあったのだが、今朝、目覚めたら全て忘れていた。というわけで、前から不思議に思っているショパンの「ピアノソナタ第1番」について書く。
 ショパンピアノソナタと言えば、演奏されるのは第2番と第3番ばかりであることに気づいていらっしゃるかたも少なくないことだろう。
 ところが、私はこの第1番が、第2第3番を凌駕する傑作であると考えている。 
 そもそも、ショパン作品を研究しようと思ったら、後回しになるのが「ピアノ協奏曲」と「ピアノソナタ」である。研究対象としてもっとも優れているのが「エチュード」であり、それを補完するのがバラードやスケルツォだろう。しばしば、超絶技巧ピアニストが「ショパンエチュードは難曲とは言えない。超絶技巧を必要とする曲を書いている作曲家は他にたくさんいる」というような発言をするが、それこそがショパンの凄さなのだ。ピアノに対して無理解な作曲家は、何を書いても“いわゆる超絶技巧”(不必要な難しさ)が必要になってしまう。それは、ピアノ鍵盤とピアノアクションの持つ物理特性と人の身体構造と人間の脊髄反射に対する理解不足から来ているのであって、同じ音楽内容を表現するにあたっても、もっとも“ピアニスティックな”解決方法をとらなければならない。
 幻想即興曲の極限までの易しさ(表現内容に対するテクニック・パフォーマンス比)は他に類を見ない。
 ピアノソナタ第1番に対する誤解はいくつもの不幸な要素による。ひとつはこれがショパンの学習期におけるピアノソナタの習作的作品として扱われていること。だから批判の多くが「ピアノソナタとして考えた時の形式的脆弱性」にあてられている。形式が不備というよりは、古典ソナタ形式に入りきれない内容という意味での批判だろう。いっそのこと「ピアノのための古典組曲」とすれば良かったのかもしれないが、かなりの前衛性を備えた曲でもあるので、そのタイトルも洒落ととられるかも知れない。
 ネットで、この曲に対する解説やブログをいくつも読んでみたのだが、あまりの無理解とステロタイプの思い込みに驚かされた。なかでもピティナの曲目解説ページは、私の見解と極端に異なるものだった(誤っているとは言っていない。見解が異なっている)。
 このピアノソナタショパンによるバッハとベートーヴェン研究の成果であり、彼らへのオマージュとなっている。そして何より、ショパンの出発点である。作品1のロンドは真の出発点とはなっていない。
 このソナタが若書きで未熟な点があることは認める。
 人気投票でも3曲のソナタ中で2位に大きく引き離されて最下位だが、よい演奏に恵まれていないこともあるかも知れない。
 出版社からの出版の打診があったときにショパンは断っているが、それは幻想即興曲を破棄するようにとフォンタナに伝えた時と同じ理由ではないか。つまり、作品の未熟さも感じていただろうが、何よりベートーヴェンからのインスピレーションをそのまま使ってしまったという忸怩たる思いがあったからだろう。
 ショパンは自らのオリジナリティが他の作曲家とは異なることに気づいており、それはロマン派の時代に生きながら自らを「ロマン派ではない」と宣言していることからも伺えるのだが、このソナタが彼のオリジナリティにおいて合格点に達していなかったのだろう。しかし、聴く我々には充分ショパン的である。
 再評価される時が来ることを願うばかりだが、バイエル同様、こればかりはどうにも仕方がない。