11月29日

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 日本にはたくさんの作曲家がいる。クラシックからの伝統を受け継ぐ(?)現代音楽の作曲家に限れば数はかなり減るが、それでも少ない数ではない。ここでいう「多い」「少ない」は、人の“平時記憶”つまり、テストや仕事上の必要性などのために特別に記憶するのではなくて、音楽愛好家が普通に音楽に接していて心に留めることのできる人数をおおよその基準としての話である。
 19世紀の音楽愛好家も21世紀の音楽愛好家も、好んで聴く作曲家の数には一定の範囲があることだろう。音楽評論家でさえ、仕事では4ケタに及ぶ作曲家の作品に触れているかも知れないが、自ら進んで聴くのは一般の音楽愛好家とそれほど違わない気がするのだ。
 古典派の作曲家は3大巨匠であるハイドンモーツァルトベートーヴェンだけが一般に知られていて、そのほかの作曲家の名前がパッと浮かぶ人はかなり音楽に詳しい人だろう。ちなみに、ウィキペディアの古典派の作曲家という表には100人を超える作曲家が挙げられている。名前を聞いたことがある作曲家はいても、そのメロディーが浮かぶ作曲家は何人いるだろうか。
 古典派の時代には、この表にある、多くの作曲家が人々の心を占めていたことだろう。しかし、その後ショパンベルリオーズメンデルスゾーンなどの活躍が始まると、没してしまった作曲家たちから順に次第に忘れられていったに違いない。ロマン派の時代にも同様に数多くの作曲家が存在し、同様に忘れられていったに違いない。
 忘れられてしまう理由はいくつかある。
 ひとつは、生前は天才然としたオーラを発する素晴らしい人に見えたのだが、作品の内容が伴っていなかった場合。あるいは、生前は活発に演奏活動をしていたのだが、没度、それが途絶えるとパッタリと忘れられてしまう場合。これは現代でも芸能人などではしばしば見られることで、亡くならなくてもメディアから消えた途端、人々の口にのぼらなくなる例は枚挙に暇がない。
 もうひとつは、その時代にしか通用しない音楽を書いていた場合。ショパンドビュッシーを知ってしまった19世紀以降の人々の耳にもバッハやモーツァルトベートーヴェンは少しも古く響くことはない。流行り歌で終わってしまうか、それとも永遠のスタンダードになるかの違いは、古典を勉強しているかどうかが少なからず関わっていると考えている。バッハやベートーヴェンを聴いても、歴史を超えるセンスを見抜かなければ意味がない。
 現代に戻る。作曲家は日本だけでなく世界中に数多く存在し、その数は人類史上最多ではないか。ここから歴史に残っていくのは並み大抵のことではない。おまけに、現代の作曲家には様々なトラップが待ち受けている。
 まず、そのひとつが作曲コンクールである。大部分の現代音楽作曲コンクールの審査基準が、本来、音楽を支えて後世に伝えていく演奏家や聴衆としての音楽愛好家の真の嗜好とかけはなれたものになっている。しかし、コンクールの受賞作品には権威が生じてしまうので、自分自身のオリジナルな揺るがぬ価値基準を持たない作曲家は影響されたり、追随したりしてしまう。どんなにソルフェージュ能力が高かろうと、驚異的な記憶力を誇ろうと、超絶技巧の演奏技術を持っていても関係ない。むしろ、そういう能力が高い作曲家ほど、このトラップにひっかかってしまうのかも知れない。事実、今になって「当時(1960年代から70年代)は、そのような風潮に逆らうことはできなかった」とエッセイで述懐した作曲家もいる。そのような“気づいた”人はよいが、若い頃にその風潮にどっぷり浸かってしまった人の中には、老いてから新しい道を探ることが難しくなっているのか、いまだに未来のは「レトロな前衛音楽」が一般化すると信じているように見える人が少なくないように思えてならない。
 次なるトラップが楽譜の残らない、いわゆる広義における“劇伴”である。映画、テレビ番組の音楽やCMは、多くの場合、その映像が上映・放送されなくなると忘れられることが少なくない。一部の映画音楽はCD化されて聴き続けられているような印象があるものの、演奏は古くなるのが普通で、くりかえし新しい編曲で再録音されていかないと懐メロになってしまって、その世代の人たちだけが聴くことになる。その世代が絶えれば、音楽も消え去ってしまうことだろう。素晴らしい曲でも残りにくい理由は演奏可能な楽譜が残らないことが挙げられる。大編成であったり、特殊な編成による楽譜は演奏の機会が極端に減る。超絶技巧を必要としないピアノソロや少人数の室内楽が最も演奏の機会が多いことだろう。これについては後述する。
 最後のトラップは他者の評価である。これは難しい問題なので、分かりやすくするために「評価の距離」という基準を設ける。
 原始時代からメディア誕生(グーテンベルク以前)まで、人々は親の意見、周囲のコミュニティにおける長老格の評価を元に判断・行動してきた。これが「もっとも距離の短い評価」である。そのうち、書籍が流通する範囲(おそらく領土・領地単位)の知識人の考えから影響を受けるようになり(これが中距離の評価)、そしてメディアの発達とともに国を越えて、さらに情報の歴史的蓄積が時を越えて伝えられるようになり(立体的な広がりをもつ評価)、そして現代は、インターネットによる発信源の限りない増殖やメディアの多様化による情報の氾濫が引き起こす評価への到達困難(評価の不透明化)によって、ふたたび評価はコミュニティに戻りつつある。これが評価の基準である。
 作品をコンクールの審査員が評価したとしても、それが自作品が後世に伝わる保証にはならないのなら少しもありがたくない。身近な人が褒めてくれるのは気持ちとしては嬉しいが、それが正しい評価であるかどうかは別問題である。メディアに取り上げられると一気に有名になるが、だからといって、これも時代を超えて人々に受け継がれていることを保証するものではない。つまり、作曲家は謙虚に過去の大作曲家の作品が指し示す尺度を読み取って、バッハやベートーヴェンショパンドビュッシーたちならどのように評価するかを考えればよいことになる。現代の作曲家たちはグループとして集いたがる傾向にあるが、そのコミュニティ内での評価に影響されやすいと感じる人は、さっさと抜け出したほうがよいだろう。ベートーヴェンがどこかの作曲グループで活動していたとか、ドビュッシーがそうであったとは思えない。 距離の短い評価や、同時代の平面的な評価はなるべく遠ざけ、立体的な評価によって自作品を判断しかないと時代を超えることは難しいことだろう。この最後のトラップを乗り越えられる作曲家だけが、作曲家としての真の才能がある人だと考える。
 音楽作品を後世に伝える力は、演奏家の「演奏したいと思う強い欲求」と聴衆の「聴きたいと思う強い欲求」の2つだけである。そのためにも、作曲家は最低限、演奏可能な楽譜、それも奏者が判断に迷うことのない熟慮された決定稿を書き残す必要がある。
 老婆心ながら書き加えておくと「難解な曲が残りにくくて分かりやすい曲が残る」というのも大きな誤解である。“本物”だけが残る、というのが真実と断じて間違いない。
 私自身、乗り越えなければならない壁は、まだ遠く、しかも高い。