12月1日(月)失われた未来(毎日新聞社刊 2000年)

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 またまた岡田斗司夫である。「奪われし未来」は1996年にシーア・コルボーンら4人の共著による環境ホルモン問題を提起した書であるが、本書「失われた未来」は岡田斗司夫によって毎日新聞に1999年4月6日から2000年3月27日まで連載されたエッセイ集である。
 私が音楽コラムで「レトロ・フューチャー」と呼ぶ世界(本書ではロスト・フューチャー)からの視点で現代を見据えたエッセイ集であり、執筆から8年という絶妙な時間が経過しているために、逆に著者の視点の見事さが浮かび上がる結果となった。
 過去の人々が思い描いた未来は、現実にその未来を迎えた者から見ると実に奇妙なものである。いま、未来が明るいと考えている人はどのくらいいるのだろうか。私自身は、個人的には今日より明日のほうがいいアイディアが出そうな気がしているのだが(つまり、日頃はアイディアに恵まれていないということの裏返し)、人々がとても幸福な時代があったのだ。核ミサイルさえ「平和の使者」であり、苺だってオレンジだって化学合成できると信じていた。だから、自然環境よりも人工環境のほうが重要だった。
 今は違う。環境が回復不可能な領域まで破壊された時、人類も終わることは誰もが知っている。
 人々は、なぜ未来予測を誤ったのだろうか。ひとつの原因は現実認識を誤ったことが挙げられるだろう。もう一つは自己認識を誤ったことだろう。つまり、内と外の両方を認識できなかったということだ。
 音楽で考えれば分かりやすい。あの1960年代から70年代にかけてのデタラメ音楽(前衛音楽や実験音楽という名前のオブラートで包まれていた)を本当に信じていた人はどのくらいいるのだろうか。未来は誰もが現代の前衛音楽を聴くようになると半信半疑ながら信じていたふうがある。たとえるならば、裸の王様に幻のコスチュームを見てしまった人たちが少なくなかったのではないか。あの作曲ファシズムのような時代に作曲を学んでいた人たちが気の毒でならない。もちろん、作曲は自由で何を書いてもよい。だから気の毒なのだ。無機質な実験音楽が好きな人はいくら書いてもよい。しかし、それを強制するような雰囲気のある時代だった。
 プラスチックは未来だった。ボールペンの本体はプラスチックでなければカッコ悪かった。核兵器がカッコよかったりもしたのだ。何を勘違いしたのか、すぐ近くの国が最近になって核兵器を開発した。本書には「原爆計算尺」なるものも登場する。米軍がベトナム戦争当時、兵士に持たせていたもので、核爆弾投下後、何時間経ったら爆心地まで半径何キロメートル進軍してよいかを計算するための道具で、これは実在した。
 書いているとキリがない。本当はリニアモーターカーについて書いてから終わりにしようと思ったが、それだけでコラム一本分になりそうなので、今日はここまで。