12月8日(月)

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 ウラノメトリア第2巻の校正作業の合間に、昨日から読んでいた「オタクはすでに死んでいる」を読了。それに触発されたコラムも間もなく書き上がる。ただし、コラムは本の内容とは関連が低い。
 文化論として優れた本書から、ひとつだけ話題を引用しよう。
 著者の岡田氏は、フランスの出版社社長と会食した時に、子どもに小遣いを与える日本の特殊な慣習がオタク文化を育てたと指摘された。ヨーロッパやアメリカでは、子どもにお金というパワーを不用意には与えないという。お金は誰が使っても同じ威力を発揮するので、それはいわば銃のようなものだからという論理である。なるほどと思った。
 決して音楽的な環境になかった私が音楽を手に入れたのは小遣いが全て楽譜とカセットテープに変換されたからだ。決して多額ではない小遣いだったが、楽譜は手ごわく、一冊を手に入れると、それを組み伏せるには長い時間が必要だった。FM番組からカセットテープに録音した音楽を覚えきるのも生半可なことではなかった。どこかに遊びに行ったら、あっという間に小遣いはなくなり、私には楽しかった思い出以外何も残らなかったことだろう。だから私はコンシューマー(消費者)ではなかった。黎明期のオタクたちもそうだったに違いない。
 アニメを見て面白いと思ったくらいではオタクでもなんでもない。手塚治虫は、弁当を持って朝から晩まで映画館で「白雪姫」を見続けた。大げさに言うならば、全てのコマを自分のものにするまで見た気がしなかったに違いない。彼は、ある意味においてオタクの元祖の一人だろう。“ある意味”とつけ加えたのは、典型的な筋金入りのオタクは、ペットボトルのキャップのような他人には価値が分からないものに対して同じような情熱を発揮するからだ。
 夢を語ることと、志を持つことの間には大きなギャップがある。オタクたちは夢など騙らず、ただ黙々と対象に没頭した。芸術家や科学者との違いは、その対象が万人に理解されるかどうかの差だけだったに違いない。