1月3日(土)ムジカ・ドゥーエ作戦会議2009

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 恒例の作戦会議。恒例とはいえ、内容は常に恒例とは程遠い。多岐にわたる詳細はとても書けないが、この作戦会議を成り立たせているのは“危機感”である。ここでいう危機感とは、売れないとか、有名にならないとか、成長しないとかそういうことではない。たとえば、日本には未だベートーヴェンショパンドビュッシーのような作曲家が生まれていない(少なくとも認知されていない)。音楽大学などの教育界や国際コンクール、一部の音楽評論が求めている音楽的能力で言うならば、すでにモーツァルトを超えるような人がゾロゾロと表れてきている。それは、モーツァルトの時代とは異なり、目立つ才能を見過ごさないような社会構造が徐々に整ってきているからでもあるだろう。
 作曲界で言うならば、現代においては「交響曲を書ける人」(本人だけが“交響曲”だと言い張る曲ではなく、誰もが交響曲の体裁を整えていると認める曲)は数限りなく存在すると言ってよい。交響曲などという音楽形態に興味を示さない作曲家も少なくないので、交響曲を例に出したのは正しくないかも知れないので、交響曲同等と言い換えてもよい。
 このままでは100年後、200年後のコンサートプログラムから20世紀後半、21世紀前半のレパートリーが消えてしまうかも知れない。“音楽史上の空白の100年”などと言われるかも知れない。もちろん、完全に消えてしまうわけではないだろう。演奏会も多様化するだろうし、空白の100年を読み解く試みも行われるだろうからである。しかし、人々の音楽世界の主要なレパートリーを占めるかどうかは甚だ怪しい。
 三枝君も私も、実に器用に曲が書けるようになったと半ば自嘲的に確認し合った。しかし、ふたりともこんなことを望んでいたのではない。もちろんベートーヴェンになりたいのでも、ショパンになりたいのでもない。真の未来は人々の想像力が及ぶようなことではないということだ。
 ダラダラと書き連ねたが、ここまでが作戦会議を成り立たせている危機感のほんの一部を説明したに過ぎない。
 というわけで、作戦会議を説明するとしたら、その場の全てを録画して、我々と同じ時間を過ごしていただくしかない。それも、過去の作戦会議から全て参加しないと意味が分からないかも知れない。
 ウラノメトリア第3巻α・β両巻とも、すでに大半を書き上げているのだが、こちらに大きなブレーキがかかったことは確かである。
 第2巻α版は私の成長途上のランドマークとして、そのまま刊行しますからご安心を(逆に不安か?)。