3月1日(日)

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 今日は夕方までは快調だったが、それ以降飛ばしすぎたのか疲労困憊。こういう日は眠れようが眠れなかろうが早くベッドに入るに限る。

 「楽譜は未だ音楽ではなく、演奏されて初めて音楽になる」という考え方が私の基本的なスタンスである。ここでいう演奏とは「音に出す」という意味ではない。楽譜を眺めて頭の中で演奏してもよい。逆に言えば、何のアイディアもなく楽譜どおりに音を出しただけでは演奏したとは言えない。当たり前だと思われるかも知れないが「感情を込めて弾く」とか「曲想をつけて弾く」などという根拠の弱い解釈で演奏する人は“演奏”になっていないかも知れない。たとえば、高座における落語家は怒ったり笑ったりしない。それを演じることによって聴衆に喜怒哀楽の感情をもたらす。同様に、音楽家も怒ったりすねたりしながら演奏しない。ツェルニーが演奏について詳細に語っている中で、もっとも重要な事がテンポが一定であってはならないということだ。それも楽節(正確にはペリオーデ)におけるテンポの対称性について力説している。バイエルの演奏も全く同様である。テンポが一定ではないと言っても、それはテンポルバートのことではない。テンポの対称性が実現されている場合には、むしろ、テンポルバートは限られた手法となる。
 両方の立場による演奏を聴き比べた上でなお「一定テンポで弾くべきである」と考えるのは自由だが、そうでない場合には「音楽天動説論者」と呼びたい。「音楽天動説」では、自分の解釈ではなく曲がつまらないと考える。つまり、自らの演奏は絶対不動のどこまでも広がる平面に立脚していると考えているので、演奏を振り返ることはなく、全て楽曲に責任がある。その平面では陸はいつか海となり、海の果ては滝となって流れ落ちていると言われているが、それを確かめた者はいない。
 それに対して「音楽地動説」では、楽曲と演奏の相互関係は相対的なものとなる。よい演奏をすれば美しい曲となり、その逆もあり得(う)る。
 昨日のレッスンでこの地上に(なんとも大げさな表現だが)、また音楽地動説論者がひとり増えた(と思う)。今日のレッスンでは「音楽地動説は難しい」と思われてしまったかも知れない。時間をかければ大丈夫です。怖くありません。本当です。本当。