5月15日(金)

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 昨日の体調不良は明らかに睡眠不足だった。忙しくて昼食が抜けたのではなく、食欲がなくて昼食をとるという行動圧力が下がっていたことが主因と考えるべきだろう。昨夜はぐっすりと眠ったので今朝は快調。
 昼前に絵里子さんから新曲の録音音源が届く。前回のレッスンではかなり厳しいことを言ったような気がするが、彼女は短期間で見事に美しい曲に仕上げた。むしろ、学ばされたのはこちらだろう。私よりもずっと力のある人だ。残るは、過去の偉大な作曲家たちがどうして偉大なのかということに到達することだ。そうすれば(まるで容易くないが)、彼らに近づくことができる。
 今朝、父から「すばらしかったぞ」という言葉とともに「日本の美術館名品展」の図録を渡された。家族の心配をよそに、すぐに遠出する。
 なんとか時間を作って出かけたいと思っていた美術展である。日本に生まれて幸運だったと思うことがいくつもある。それは日本の自然と文化であり、日本語で世界中の進んだ知識の多くを学ぶことができることであり、世界中の名画やすぐれた演奏家が日本にやってくることであり、なにより疑似科学的・宗教的・習慣的・政治的な理不尽な拘束から逃れやすいことである。問題点も多いが、やり方次第では自由(勝手気ままという意味ではない)で自律的な人生を送ることができる。
 そして、最後に来るのが日本の美術館の所蔵品のすごさだ。日本美術に関して言うと、明治時代に国宝級の膨大な作品群が海外に流出しているが、それでも一生かけても鑑賞しきれない数の作品が残っている。実際、優れた仏像は一生眺め続けても鑑賞しきれたとは言えないかもしれないので、作品が充分にあることは確実だ。
 図録は、のっけからドーミエの「ドン・キホーテサンチョ・パンサ」から始まる。彼らがどういう人物であるのかが一瞥して分かるような不思議な絵。2枚目はジャン=フランソワ・ミレーが早世した最初の妻を描いた「ポーリーヌ・V・オノの肖像」。妻の肖像を描いた傑作は多いが、これはモネの「日傘の女」、ルノアールの「田舎の踊り」、モディリアーニの「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像(たくさんあるが、その中の一枚が特にすばらしい)」と並ぶ作品。「晩鐘」や「落ち穂拾い」は少々通俗的なところも感じられるが、この絵にはそれがない。
 ルノアールは日本に名作が数多く所蔵されている。今回出展された2点もルノアール的な佳作。
 ゴッホの「雪原で薪を集める人々」はミレー的な初期の作品。初めて見た。
 カミーユピサロは、歳の離れた姉が大好きだったために幼少時から親しんできた。「エラニーの牛を追う娘」と「エラニーの菜園」。どの画家も同じだが、実物と図録の色合いが異なるのは明らか。実際の絵と対面したいものだ。
 モネは「ポール・ドモワの洞窟」と「ジヴェルニーの積みわら」。「積みわら」のシリーズは「睡蓮」のシリーズよりも気に入っている。とくに夕日の積みわらを逆光で捉えた作品が気に入っているが、今回の一枚もそれ。
 セザンヌアンリ・ルソーシニャックが続くが省略。ルドンも好きな作品がある。今回出展された「ペガサスに乗るミューズ」もルドンらしい作品。
 アンソールとドニも省略。ボナールが2点。ボナールは、奇をてらっていないのに、すぐにバナールだと分かるところが凄い。ドラン、ボッチオーニ(図録ではボッチョーニ)、エゴン・シーレカンディンスキーピカソ、ブラック、ユトリロ、スーティン、シャガール、パスキン、キスリング、ヴラマンク、ルオー、ピカビアと続く。エルンストの3点は名品。ミロの「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」はミロのミロ的なところが遺憾なく発揮されている作品だが、国立西洋美術館が所蔵する「絵画」ならもっとよかった。
 ポール・デルヴォーベン・シャーンジャクソン・ポロックが1点ずつ。そしてイヴ・クラインの「人体測定 ANT66」。クラインは制作期間が短く、作品数も少ないので貴重。
 ルーチョ・フォンタナは、日本にいくつもの作品があるが、今回は豊田市美術館が所蔵する「空間概念」。空間概念という作品は多数存在する。デイヴィッド・ホックニーアンディ・ウォーホル(2点)で西洋絵画は終わり。近代美術史を概観するかのような充実ぶりだ。
 彫刻(彫塑)では、ブールデルの「両手のベートーヴェン」、ブランクーシ「空間の鳥」、それから個人的に気に入っているジャコメッティの「ディエゴの胸像」のほか、ヘンリー・ムーア、マリノ・マリーニイサム・ノグチほかの作品がある。
 ここから、いよいよ日本の近・現代洋画、日本画、版画、彫刻となるのだが、長くなったので気が向いたら次回。