6月2日(火)

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 昨日、朝日新聞の「ピアノ入門バイエル離れ」という記事を教えていただいた。内容は推して知るべしという感じだが、問題点が整理されていないのでそれを明らかにしたい。なお、この記事を書いた記者(吉田純子さん)には責任がなく、記事から読み取れることは、取材先で答えた音楽関係者の考え方、つまり一般に考えられているバイエル像に過ぎない。
 まず、日本に紹介された最初のピアノ教則本がバイエルであったことが記されており、しだいにバイエルそのものに懐疑的な目が向けられるようになってきたとなっている。たとえ、それがバイエルではなかったとしても、多種多様なメソードが流通するようになればシェアが分散するのは当然のことだろう。
 明らかな誤りを指摘しておくならば、バイエル信奉(そんなものはあったのだろうか?)懐疑的な目が向けられるようになった要因として

1.指の訓練に比重が置かれすぎている。
2.ハ長調ばかりで他の調への対応が遅れる。
3.ドイツ古典派の狭い様式しか学べない。
という3項目が挙げられている。

 バイエルがメソードして最も重要な点は「ペリオーデ」の完全さにある。予備練習から最終曲の第106番まで、私たちが音楽の美しさを感じるための最大の要素としてのペリオーデが分かりやすい形で曲が書かれている。それを抜きにしてバイエル批判をする人は、自身の演奏が棒弾きであることを告白していると考えてほぼ間違いない。1.については、バイエルから指の訓練しか見いだせない指導者による批判だろう。指の訓練というよりは「ロールンク」や「反復保持音」、重音のレガート奏法などのテクニックの習得を目指していると考えたほうが実態に即しているだろう。
 2.の「ハ長調ばかりで他の調への対応が遅れる」はどうだろうか。「遅れる」ということは「遅れない」という状況があるのだろうが、たとえば「ト長調が弾けないのはハ長調ばかり弾いてきたため」なのだろうか? これについては根拠を知りたい。
3.の「ドイツ古典派」には大きな疑問がある。記事ではバイエルの同時代人としてベートーヴェンが挙げられているが、バイエルはドイツロマン派に属する作曲家である。ペリオーデ表現からもロマン派であることは明白。誰が言ったのか知らないが「バイエルは古典派」という迷信が“通説”となっているのは困ったものだ。
 バイエルを攻撃する文章には、しばしば「最近ではよいメソードが数多く出版されるようになってきており・・」というくだりがあるのだが、具体的なメソード名を挙げているものは少ないか、あるいは全くなかったりする。作曲は個人的な作業なので、阿修羅像やサモトラケのニケのように、時代ではなく、その質は個人の資質に依存する。そんなに簡単にあのバイエルを超えられるのだろうか。
 ちなみに、挿し絵として一コマ漫画があり、飲み屋で焼き鳥を肴に二人の中年男性が「あいつのせいでオレはピアニストになれなかったんだ」「・・・ひでえば、そのバイエルってヤツは」という会話があるが、これもバイエルに対する一般的な認識を表していると言えるだろう。
 
 もし、作曲工房に取材があったならば、記事が全く異なるものになったことは間違いない。